スリッパの履き替えについて

結論から云ってしまえば、スリッパを履き替えることが感染対策に貢献することはほとんどないと云ってもよい。これは原理的には粘着マットと似たようなもので、粘着マットが感染対策に寄与しないのとほとんど同じ理由によると考えられる。

たとえば、MRSAに的を絞って考えてみると、MRSAの主要な伝播経路は「医療従事者の手」であると考えられる。これは疑うことの出来ない事実であろう。MRSAは医療従事者の手によって媒介される。空気感染はしない*1。これがポイントである。部屋にある患者がいるとして、その患者がMRSAに感染したら、まず間違いなく、「誰か」がMRSAを媒介したのだと考えていい。自然発生したわけではない*2。マラリアは蚊が媒介する感染症だが、MRSAは手が媒介する感染症なのだ。これをまず認識しなければならない。

では、環境から感染する可能性は皆無だろうか?結論から云ってしまえば、床、もしくは壁から感染する可能性はほとんどない。床から感染するためには、MRSAが患者の特定の部位まで舞い上がらなければならないし、壁から感染するためにはそれなりの菌量が壁を媒介して患者に付着しなければならない。きっちり清掃出来ていれば(つまり肉眼的な汚染がなければ)、ほとんど問題はないと考えられる。

もっと根本的なことを云ってしまえば、床は不潔なものなのだ。もっと云ってしまえば、スリッパは不潔な履物なのだ*3。スリッパの履き替え廃止に抵抗するすべてのひとに聞いてみたい。誰か定期的にスリッパを洗っていますか?どこをどう考えたら、あのスリッパが「清潔」だと考えられるのか、私にはまったく理解出来ない。白衣も同様で、白衣の袖は立派な感染源になり得ます。白衣を毎日取り替えていますか?白い白衣が清潔だなんて思い込み、さっさと捨ててしまうべきなのです。

それでも納得出来ないあなたにとどめのひとことを。清潔な部屋でいちばん汚いのは何でしょう?答えは、「人間」です。部屋をホルマリン燻蒸して無菌化することは可能ですが、人間を無菌化することは至難の業です。さきほど医療従事者の手がMRSAを媒介すると云いましたが、さあ、白衣の袖は清潔かな?清潔な部屋に白衣を持ち込むと、白衣の袖についたMRSAが落下します。晴れて、MRSAに汚染された床の出来上がりです。これは白衣を変えても同じことですね。感染源はあくまでも「手」です。手のMRSAが白衣に移り、そこから落下します。床は汚染されます。スリッパを履き替えようが履き替えまいが、床はMRSAに汚染されるのです。医療従事者の手によって*4

つまり、「専用スリッパに履き替えることには意味がない」ということは、なんとなくでも想像することが出来ます。これを防ぐためには、手についたMRSAの菌量を手洗いで出来るかぎり抑えること、環境に存在する肉眼的な汚れを清掃によって除去すること、などが考えられますが、改めて考え込むまでもなく、病院としてきわめて常識的な対策です。従って、スリッパを履き替えるなどという手間をかけずとも、ちゃんと清掃していればよい、手洗いをしっかりしていればよい、ということになります。

床の環境検査もまったく無駄です。時間と労力と金の無駄。結局のところ、いちばん云いたいのはまさに「ここ」でして、ヨーロッパでは20年も前に決着がついてもう議論のぎの字も出てこないこの問題で、あーだこーだと言い合うのは「無駄」以外の何物でもない、ということです。違うことに労力を割いてください……

まあつまり、クソ忙しいのにこれ以上無駄な仕事を増やさないでくれ、ということなのですが。

*1:特殊な条件下でのみ、飛沫感染が成立するようだが……

*2:もともと保菌していた可能性は否定出来ないかも

*3:スリッパは日本の誇る不潔な文化の代表である

*4:ナースキャップにも似たような現象が起こりえます