格差というもの


1年間労働組合に付き合ってみてわかったことは、どうやら組合の考え方というのは時代にそぐわない、感性としてはちょっと古いのではないかということだ。


組合の基本姿勢は共産主義である、というのはまずもって疑いを入れないところであろう。問題は、どの程度、共産主義的なのか、ということだ。どのあたりが問題になるのかというと、ひどいところになると、個人が新しい技能を身につけるために研修に行くのを嫌がる。これはもちろん、あるひとりが突出してしまうと、他の人がついて行けなくなるから、ということだ。ほかにもいろいろあって、つまるところ、みんな平等に、というのが活動方針としてある(と思う)。


もちろん組合組織がなければ労働者は雇用者によって不当に搾取される可能性があり、組合活動の重要性は理解しているつもりではある。が、それ以上に違和感を感じることが多いのだ。たとえば先の技能研修などがいい例で、場合によっては職域を広げることをはっきりと嫌がるのである。いちいち組合にお伺いを立てなければならない、などというアホ臭い状況になったりもする。で、いまいちばん組合が嫌がっているのが、能力給というやつだ。


能力給ほど組合の考え方に馴染まないものはないかもしれない。能力給という考え方自体が、もうすでに組合と相容れない。しかし、資本主義社会というのは、基本的に能力給の世界なのだ。モノを売って利益を追求する社会が資本主義社会なのだから、基本は能力給なのである。会社としては、会社に利益をもたらさないものを雇っている余裕はない。そして、会社に直接的に利益をもたらすものを引き立て、さらなる利益を生み出したい。そういう人材が社外に流れては困るし、本人のやる気を出させるためにも、給料は上げてやらなければならない(給料というのは、社会的に個人の能力を評価するバロメータという側面がある)。現状、多くの会社が能力給を採用しようとするのは、必然だとも云える。


給料の高いひとと、低いひとが存在する。これは当然のことであろう。その評価の方法に不当な点がなければ、これはむしろ当然のことだとも云える。格差社会などということばがあるが、資本主義社会では格差がある方が自然なのではあるまいか。給料の高いひとをみて、「不公平だ」というのは、少しだけ違和感を感じてしまうのである。(繰り返すが、その評価に不当な点がなければ、だ。たとえば、能力がありながら、社会的な何らかの要因のために正当な評価を受けることが出来ないというパターンが存在しうる。これは不当だと判断できる)


結論から云ってしまえば、これからは給料格差よりも能力格差の方がずっとずっと問題になるだろう、ということだ。いまは終身雇用制度や年功序列制度のなごりがあって、給与にも自分の能力以外の(勤続年数などの)要因が入り込んできたりもする。それがなくなってしまって純粋な能力給になってしまえば、労働者はつねに時代にあわせて自分を伸ばして行かなければならなくなるのだ。そう考えたとき、極論すれば、これからはどんどん先を見据えて自分を開発していかなければ、生きて行くことすらできない社会が訪れるのだ、と云えないこともない。これはしんどい社会だと思う。


まあ、どっちみち男に逃げ場はないんで、いろいろ弊害が出ることは疑う余地なしであります。私は基本的に能力給には賛成ですが、ものごとには限度があるよね、という話しです。(ほんとか?)