システムというもの

「お手上げです」と云わないのがプロのプロたる証だとすれば、システム保守の現場は、あまりにも考え方が違いすぎる。

システムはいちど稼働すれば「間違いなく」動き続けるものだというのは誤解である。むしろ、あんなものが「間違いなく」動き続けていることに驚嘆する。考えてみてほしい。臓器の位置も、構造も、成分も、働きも、血管やリンパの走行すら個別に違う人間を、「全部説明書に書いてあるから、治療よろしく」と云われて十全に治療できるとでもいうのだろうか。間違いは許されず、万が一説明書に書いてなければ、仕組みがどうなっているかはまったくわからない。わからない部分を検査することはたいていのケースで許されない。これが、現代の病院で稼働している「システム」である。生物の複雑さにはとうてい適わないが、それでも複雑に絡み合っているという点で、一個の生物のようにも感じられる。

こんなものは理想論に過ぎないが、仮に100%の稼働を求められた場合、現場はどうなるか。過剰に保守的になるのである。欠けているドキュメントは許されないし、グレーな運用は明確にせずにはいられない。見通しが立たないことは引き受けられないし、契約外の仕事は絶対に手を出せない。極論ではあるが、100%を強要すると、多かれ少なかれ、現場は萎縮する。

どこの世界でも同じである。かつて、産科の世界で起きた問題は、いまもなお、形を変えて、いろんな世界をダメにしている。だから、これは医療の問題でも、ITの問題でも、ましては個別性の問題でも、なんでもない。リスクを過剰に避ける心理的な働きの結果であり、無理解の結果でもある。みんな、自分の狭い世界の外を、理解しようとはしていない。

電子カルテの導入に対して思うこと

電子カルテの導入を行う際には、まず、「カスタマイズするという選択肢を捨て去る」ことが大切だ。綺麗さっぱり捨ててしまって、既製品のパッケージに合わせて仕事をすると決めてしまう。そこから、「そもそもこの業務って。。。」と考え始める。

大切なのは「カスタマイズを撲滅させる」ことではなく、「そもそも論で業務を見直す」ことであり、カスタマイズの可能性を捨て去ることは、「そもそもこの業務って必要?」という議論を誘発するためのきっかけに過ぎない。そうしなければ、必ず(必ず!)、何も考えずに、いやむしろ何も考えないために、「過去のシステムで出来ていたことを新しいシステムでも再現しようとする」。システムで収集すれば一発で済むのに紙の申請書が残っていたり、二重に転記するワークフローが残っていたりするのは、これが理由である。そもそもその業務って必要?という見直しがされていないからだ。従って、一度はカスタマイズが出来る可能性をなくして、業務を見直す必要がある。

もうひとつは、部署単位の縦割りでシステムを議論すると、無駄が残りやすい。この場合は、「そもそもこの業務って必要?」という議論が出来ないためだ。「とりあえず従来の業務フローがこうなっているから、これからもこの業務は必要なことなんだろう(よく知らんけど)」みたいな状態である。この「よく知らんけど」と誰かが云いだしたら、要注意。そこに壁があって、向こう側が見えていないサインだからだ。このような状況に陥ると、下っ端だけではどうにもならず、部署の所属長どうしが認識をすりあわせる必要が出てくる。

従って、電子カルテの構築に、病院側には、いわゆるエンジニアは不要である。必要なのは、ベンダでもコンサルでもいい、「素人に対して提案が出来る高いスキルを有した導入担当者」と、「病院のワークフローを整理できるリーダー」であり、さらに加えて「病院の方針を決定できる優れた経営幹部」である。全員が「全体最適の観点から議論できる」ことが必要であり、これがすべてといってよい。

ワン・チーム

チームで成果を出す、ということについて、よく考えるようになった。
だが、ここで何気なく口にする、「チーム」とは、何を指すのだろうか?どこまでがチームメンバなのだろうか。
それは、いわゆる「身内」とは違うのだろうか。

たとえば、「正規職員」と「委託業務職員」でひとつのチームを形成したとしよう。このチームは、ある単純作業ではない、何らかの仕事を与えられ、成果を出すように求められている。判断に関するところは正規職員に、手続き作業に関係するところは依託業務職員に委託される。さらに、専門性が高く、頻度が稀な業務は、外部の業者に委託する。そんな環境だ。

この場合、どこまでがチームなのだろう?こうやって書くと、「外部の業者も含めてチームだ」と云ってほしいのだろうな、という雰囲気すら漂うが、現実問題として、そのように考えて行動するチームが存在するだろうか。たとえば、何らかの原因で、外部委託の業者の負荷が異常に高くなったとして、じゃあ外部業者の負荷を考慮して。。。といった行動を実際に取るチームがありえるだろうか?

だが、実際には、成果を出す、といった観点からは、外部の委託業者のアウトプットが成果に著しく影響するならば、外部業者の高負荷は無視できないファクタだ。そもそも外部委託していること自体が間違いかもしれないし、たまたま起こったきわめて稀な現象なので、涙を飲むしかないのかもしれない。そもそもお金を払って業務を委託しているのだから、結果さえ納品してもらえればそれでいいんだよ、負荷なんかそっちで調整すべきだろ、という考え方もありえる(というか、それが普通だろう)。だから、個人的には、同じゴールに向かっているならば、すべてチームメンバである、という立場を取りたいと感じる。

何が答えというわけではないのだが、チームとして成立するためには、コミュニケーションが必要なのだな、と最近よく思う次第である。

答えはあなたの中にしかない

たとえ相談されたとしても、「答え」を提供することは出来ない。答えは相談を持ちかけてきたヒトの中にしかない。

これはべつに言葉遊びでも何でもなくって、そのまんま、その通りなのだ。相談されたヒトの中には、相談者が抱えているような課題、問題は存在しない。これを短時間で相談者と同じレベルで共有することなど不可能だ。課題や問題が存在しなければ、とうぜん「答え」も存在しない。答えに近づくためのきっかけやヒントは提示できるかもしれないが、「答え」を教えることは、誰にも出来ない。

外部のコンサルタントを雇って「高い金を払ったのに、役に立たなかった」と嘆くひとがいる。もちろん、そのコンサルタントが能力不足で、求められる成果を提示できないこともあるだろう。だが、多くのケースで、コンサルタントを雇った側が、「生徒」になってしまって、親鳥が答えを投げてくれるのを馬鹿みたいに待っている傾向が強い。

問題はあなたのなかにしかない。
だから、答えもあなたの中にしか存在しない。

この道しか選べない

よく、あとから過去を振り返ってみて、「ああ、人生無駄なことなどなかったな」という感想を聞く。私自身も、何度か経験がある。過去に趣味でやっていたことが意外なところで役に立ったり、自分の方向性を決めたりする。だから、過去を振り返ってみて、「ああ、無駄なことなどなかったのだな」と思う。だから「何でもやってみるべきだ」などといったアドバイスにもつながりやすい。場合によっては、何か超常的な運命を感じたりすることもあるかもしれない。しかし、これはおおむね勘違いである。

完全に順序が逆で、正しいのは、「持っているスキルでしか、歩く道を決められない」、だから「あるとき学んだことが、道を選ぶのに役に立つことがある」、そして「選んで歩んできた道は、過去のいずれかの経験やスキル、知見があったからこそ選べた道である」。従って、過去を振り返った時、「ああ、無駄なことはなかったな」と思うのは、当然ことである。その経験があったから、その道を歩むことが出来たのだから。

三角関数なんて、将来何の役に立つかわからない」という高校生がいるようだが、誰かがちゃんと教えてあげてほしい。その答えは、「三角関数を学んでおかなければ、三角関数が必要とされる道を選べない。だから学んだほうがよい」。ちゃんと目標がはっきりしているひとは、三角関数なんて必要ないこともあるだろう。そうでないなら、自ら可能性を狭めてしまうのは愚かなことだ。

もちろん、ことの善し悪しは別ではあるが。

目的と評価

「その境遇に対する、君の考えは?」僕は尋ねた。
「境遇に対する評価は行いません。目的が設定されて初めて、それを実現するための環境を評価することができます」

森博嗣 著: 「血か、死か、無か」

目的は大事なファクタだ。目的を定めることで、はじめて組織で仕事ができると云ってもいい。決しておざなりにしてはいけないはずなのに、「まず目的をはっきりさせましょう」とか、「目標、方針をはっきりさせましょう」という提案をすると、まず間違いなく、放置される。目的や目標は、ただのお題目に過ぎず、何を為したかだけが重要であると思っている。だからそんなことに時間を割くのは無駄なことで、さっさと仕事に取りかかりましょう、というわけだ。

まあ、ある意味ではその通りで、個人プレーではまったく問題は生じない。だが、ヒトの入れ替わりのある組織やグループで仕事をするためには、方針や目標、目的といったファクタが、とても重要な意味を持つ。目的に照らし合わせて環境を評価する、という考え方は、とても大事なことなのだ。ゴールを設定せずに、どうやって歩き出すというのだろう?どっちに向かって歩き出すというのだろう?

方針に照らし合わせて環境を評価する。だからこそ、方針がしっかりとブレないものでなければならない。方針が穴だらけでだれも説得できないものであれば、行動にも説得力や共感は得られまい。

裁量労働について思うこと

働き方改革の一環として裁量労働を導入することについては、あまり効果が上がらないであろうと予想。

モノづくりを基本とする生産業には、あまり向いてないのではないかと思う。いまでも裁量労働制は一部の業種に適用されているが、おおむね「形のない価値をつくる産業」もしくは「複雑なひとつのものを作り上げていく産業」に限定されている。これを単純なモノづくりに適用するのは、なかなか難しいのではないか。ホワイトカラー的な一部の業種に限って拡大するなら、まだわからないでもないけど。

あと、容易に転職できる環境を整えることで、まっとうに裁量労働が運用される土壌をつくる必要性もある。この職場はクソだと思ったら、即転職が可能であることはだいじなことだ。この「クソだと思ったら即転職」ということに抵抗がある世代がきれいさっぱりいなくなってしばらくたったら、裁量労働制はうまく機能するかもしれないとか思ったりもする。いずれにしても、何十年も先の話し。

病院業務自体は、サマータイム裁量労働とは無縁だ。ただ、私の残業の一部は、夕方に検査オーダを出す医師と、日勤帯に検体を取り忘れた看護師によって発生している。そうはいっても、夕方でなければオーダだせねーもんよ、という意見もあるだろうが、そーゆー構造的な欠陥をシステマティックに解決することこそ働き方改革なんじゃねーすか、とか思う今日この頃。