私の目標は組織に貢献できるのだろうか?

私の目標は、組織に貢献できるのだろうか?

目標を部下に決めさせるスタイルには、明らかな問題がある。たとえば、その部下が組織に取って破滅的な目標(やや語弊があるが、野心と言い換えてもいい)を持っていた場合、それは個人の目標として認められるのだろうか?そして部下が目標を何も提示できなかった時、では組織としての目標はどうなるのだろうか?

組織としての目標や理念、方針を提示することなく、部下に目標を決めさせるスタイルには弊害しかないと云ってもいい。部下の目標が組織に貢献できないと判断した場合、では上司はその目標を破棄させるのだろうか?だったら、最初から組織に貢献できる目標を提示してください、と云っておけばよいだけである。つまり、それは暗黙の了解なのだ。「組織人が上司から目標を示せと云われたら、当然組織に貢献できる目標のことだよね」という、大前提がそこにある。だが、残念なことに、「よい目標」の指標が示されない限り、理論的には部下が「よい目標」を提示してくる可能性はかなり低くなる。まあ、これも当たり前の話しである。

以前にも書いたが、つまり、組織としての目標が提示されないなかでの面談は無意味である、といってもいいだろう。少なくとも、双方得られるものがきわめて少なく、きわめて効率が悪い。さらに云ってしまえば、無意識にせよ「現状維持」を目標にしている組織においては、すべての面談や査定、評価の類いが無意味である。現状から悪化すれば、誰がどうみても、たちどころにそれと知れるからである。

まあ、あれだ、検査の世界って、どうやって変化に耐えるか(とくにマンパワー)、という、ある意味「後ろ向き」の考え方が支配的なんだよねー。一時期あったブランチラボ化にどうやって抵抗するのか、みたいな。まあ、こんなこと云ってる俺も大差ないんだけど。。。

宗谷本線

headlines.yahoo.co.jp

何年か前、北海道でブルベを走ったときに、足を痛めてDNFした。そのときに輪行でお世話になったのが、宗谷線である。たしか、音威子府から旭川まで輪行したのだ。ぼーっと景色を眺めながら、たしか2時間くらいゆらゆらと揺られていた。10人弱くらい、私の他にもお客がいて、自転車が邪魔だったので申し訳なく思ったことをよく覚えている。

利用客数が必ずしも需要を反映するとは思わないし、数字には換算できない事情もあるだろう。しかし、半永久的に利便性を提供するためには、ある程度の収益があることもまた大切で、難しい問題だと思う。個人的には、存続していてほしいし、もういちど乗ってみたいと思う。いちどはゆらゆら揺られて、稚内までいってみたいな。

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熱意は強制できない

「皆が皆、あなたのように熱心に取り組んでいるわけではない」

こんなことを云われた人がいるかもしれない(ほんとにいるのか?)。つまり、熱意や情熱は共有できるが、強制することはできないのである。馬を水辺に連れて行くことは出来るが、むりやり水を飲ませることはできない。自分以外のメンバが熱心に取り組んでくれない、とお嘆きのあなた、それは情熱を共有できていないことが原因だ。細かいことは各々考えて察しろ、というのは、リーダの怠慢である。残念ながら、それは理想ではあるものの、「理想とする状態」であり、云うなれば「best」である。bestな状態は、非常にレアだと心得るべきだ。少なくとも、最初から期待するべきものではない。そんな不確実なものを最初からあてにしているなんて、どうかしている。正気とは思えない。

情熱や熱意、思い入れ、そういったものは共有するものであり、強制することは出来ないものだ。チームリーダは、チームのメンバに対して「察しろ」と云ってはいけない。資料を渡して、「これを読んでおけ(=読んですべて理解しろ)」と云ってはいけない。それは情熱の強制である。情熱の強制は不可能なのだ。熱意は共有するものであり、そのためには仕掛けが必要だ。従って、情熱を共有できていないチームは、リーダがリーダとしての責任を果たしていない、と云えるだろう。

まあ、そこまで機能しているチームは見たことがないですが。。。

勉強の仕方

大人になっても、勉強の仕方がわからない、というひとが意外に多いことに驚かされる。

というか、これはほんとうに理解できない。勉強の仕方がわからない???私はあなたが何を云っているのかわからない。勉強したいんだったら、勉強したらいいじゃん?何か迷うことや、難しいことがあるのだろうか?日本国民の大多数は義務教育を通過してきているわけで、正直なところ、「以前、歩いたことはあるんだけさ、歩き方忘れちゃったよ」とか、そーゆーレベルの話しである。おそらくではあるが、その真意は「効率のいい勉強の仕方がわからない」とか「結果が出せる勉強の仕方が分からない」といったことが云いたいのだろう(と思う)。

勉強の仕方や勉強すること意義、自分にとってどういう意味があるのかは、義務教育の間に学び取っておくべきものだ。教えられるものではない。勘違いしてはいけないが、これは自分が学び取るもので、教えてもらえるものではないのだ。勉強の仕方がわからないと嘆くひとは、結局のところ、努力を積み上げるのがめんどくさいと云っているだけで、要領よくやるやり方がわからない、と云っているだけだ。最初から要領よくできるひとはようするに才能がある人であって、勉強に限らず「才能がないひと」は、ただもくもくと積み上げるだけである。早く走れないなら、歩いて進めばよい。結果として、才能がある人よりも遅くはなるだろうが、どこかには到達するだろう。何か、わからないことがあるだろうか?やるかやらないかの世界である。歩き出さない人に走り方を教えても意味はない。

ちなみに、勉強の仕方がわからないと嘆く人の大半が、「わかった振り」をする傾向がある(ように観察される)。わかった振りをすると結果、脳みそが騙されて、それ以上勉強しなくてもよいのだと勘違いする。これを繰り返すと、勝手に脳みそがわかった振りをして、自分がどこまで理解していてどこから理解できていないのか、理解の最前線が曖昧になる。つねに自分がどこまで理解できていないのかを把握しておくことが大切である。

答えるべき問いはどこにあるのか

上司が「知りたいこと」にきちんとフォーカスしていないと、
部下は「答えるべき答え」が作れない。
上司が「何でも知りたい病」にかかると
部下は「何にでも答えようと準備する症候群」に罹患して、疲弊する。
そして10年後、部下は「何でも知りたい病」にかかった上司として、
部下を「何にでも答えようと準備する症候群」に罹患させる。

結局は、上司が何を目標にしているのかをはっきりと自覚していることがもっとも大事で、
そのためには何が必要なのかについて、自覚的であることでしか、
この悪循環を止める手段はないように思える。

「何でも知りたい病」は非効率の源泉である。

面接というもの

面接について、考える機会があった。

たとえば、このような質問にはどのような意義があるのだろうか。
www.businessinsider.jp

質問があるからには、質問をした意図があるはずだ。圧迫面接と云われる手法は、意図的に面接者に対して圧力をかけてその反応を見ることで、ストレスやあからさまな圧力に対応する能力を見ることを目的としているらしいが、はたしてこのような手法で「ほんとうに」能力を図ることが出来るのだろうか?面接の場で応答が困難な質問をあえてすることで、そしてその反応をみることで、どのような解釈が出来るのだろう?

医学の世界で、「これはこうなるはずだ」といって新しい治療法を検討することはある。ただし、検証が必要である。検証の結果、思い込みでいままで有効であるとされてきた手法がじつは無意味だったと判明することもある。とうぜん有効だと考えられた手法に、あまり効果が見られないこともある。面接の世界に、そのような検証はあるのだろうか?たとえば、面接することでより「優秀」な人材を確保できるという仮定は、検証されているのだろうか。

blogs.itmedia.co.jp

以前から感じていた疑問は、けっきょくこういうことなのかな、と思いつつある。
思考の瞬発力は大切だが、それがすべてではない、ということだ。

アメリカの企業は、自分たちで事業を育てることはせず、基本的に、「必要なものはアウトソーシング!」という価値観で動いている。従って、最初から優良なもの、その時点で役に立つものが選ばれ、好まれる。日本はどうだろう?日本人のビジネス的な価値観は、かなりの部分、「年功序列」や「終身雇用」に依っていると思う。それが日本の企業力の源泉だともてはやされた時期もあったらしい。いまでは批判されることも多いようだが、少なくとも悪いことではないだろう。その日本が、なぜ思考の瞬発力だけを評価するような選抜方法に依るのだろう?面接という採用手法そのものが、目的と矛盾しているのではないかと感じることはよくある。

いわゆるところの就職面接は日本には馴染まない。たぶん、だけれども。