舵取りの行方

組織の舵取りをする人間は、その組織の中でもっとも有能で、見識のあるものでなければならない。お飾りのトップは邪魔であるだけではなく、きわめて有害な存在である。なぜなら、その組織の権限はトップにあり、そういった存在はしばしば致命的な間違いを犯すからだ。

っていうのが、自分のまわりを見渡したときにしきりに思うことなんですけどねえ。以前に、「委員会の役割は責任の分散である」と書いた覚えがあるんですが、トップが組織の舵取りが出来るほどの見識がない場合、ほんとに責任を分散させるためだけにしか機能していないことが多いです。たぶん、こうやって自己防衛しているんだろうなと思うのですが、マジメに云って、「活動するべきときに活動していない」弊害がどれほど組織に深刻なダメージを与えるか、凄まじい勢いで社会構造が変化しているこの時代に、その危険性を理解出来ないわけはないと思うんですね。社会情勢を読んで対応するべきことに対応する。何もしない消極性が組織を潰すことなんて、ビジネスの世界では当たり前のこと。医療の世界もそういったビジネスの風にさらされているわけですから(その是非はさておき)、何もしない消極性は取り残される危険性を肯定するようなものです。つまり、どのような組織であれ、舵取りの立場にいる人間は、その組織の中でもっとも有能でなければならない、ということになります。

何が云いたいのかというと、いまの政治家に医療の舵取りが出来る人間がいるのかなー、という話しです。司法もそうですよね。医療裁判のすべてがおかしいなどというつもりはありませんが、明らかにおかしい事例もあったりして、世の中狂ってるよなー、って思わされることもしばしば。つまるところ、舵取り出来るだけの有能な人間がいないから現状がある、といってもいいかもしれません。

私は正常な形で組織が成り立つのはせいぜい「村」レベルまでで、それ以上はどこか歪にならざるをえないと思っています。一個人が組織の構成員をすべて認識出来るレベルでなければ、たぶん組織というのは成り立たないのではないかと思うわけです。それ以上の規模になれば、人間は自分の所属している組織の規模を正確に把握出来ない。マスメディアという補助具がなければ、自分たちはいったい何に所属しているのかわからなくなるのです。だから、より小さな組織を作ってそこに所属する。日本は県という行政単位を作って、県は市町村という行政単位を管理し、そこで市民の生活に関与する。日本を動かす政治家には村の組織を完全に把握することは出来ませんし、逆もまた無理なことです。そういった齟齬がいまの医療崩壊を助長しているのかなーとか、ちょっと思わないでもないですね。