ファンギフローラ

なあ、綺麗だろう。。。?
信じられるか。これ全部、「カビ」なんだぜ。。。?

( ' ^'c彡 ))Д´) パーン

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年金は互助だと思ってる

年金をあてにはしていない。あてにはしていけない理由がある。

よく考えてみなくてもわかることだが、この仕組みは「人口が増えること」が前提にある。従って、人口が増えなければ破綻するのが道理である。運用で増やし続けることはまず不可能だ。プロのベンチャーキャピタリストですら、投資の回収は「ごく一部の成功した企業」からしかできない。数字の上では、投資のほとんどは消えていく運命にある。年金を半永久的に、健全に運用し続けることが出来るなんて、誰が信じられるだろう。

社会の仕組みとしてはすばらしいとは思うが、弱点も多い。理解したうえでライフプランに組み込むのは問題ないと思うけれども、あてには出来ない。

乗鞍岳

自転車行けるところで、もっとも空が近い場所。
時間がなかったので日帰りで強行したけど、すばらしいところだった。

うん、まあ、ウチからはアクセスが悪すぎて、二度は行けないけど。。。
松本駅から自走できる脚力があればなんとかいけるかも?)

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ソーシャルメディアで目立とうとする迷惑行為

www.sankei.com

常々思うところだが、こういう「ソーシャルメディアで目立とうとする迷惑行為」と、いわゆる「鉄オタが写真撮るために自己中行動をとること」に、何か差があるのだろうか?うーん、よくわからない。少なくとも、ソーシャルメディアで目立ちたいと思わないひと、写真を撮るためにイノチ賭けてないひとからすると、等しく「タダのバカ」で括られてしまいかねない行為ではある。世の人の大半が、これらはどちらのタダの馬鹿、で済ましてしまうであろう。

ソーシャルメディアは人気の度合いを数値化できるところに意義がある。簡単に云ってしまえば、友達百人出来るかな、の世界である。過激なことをやれば視聴者が喜ぶ、だから過激なことをやる、という論理が、まかり通るのがこの世界だ。視聴率が上がる、視聴者数が増えるということは、ここでは正しいことであり、絶対的な評価基準のひとつでもある。だから、ユーザは、ルールに従ってまっとうに評価されようとしているだけなのだ。ほらさー、クズほど仕事が出来る、っていうじゃーん?みたいなー。まあ、どんな手段を使っても「評価される」方法を採っているだけで、非常にわかりやすい基準に従って仕事をしている、実はただそれだけのことで、その点ではきわめてシンプルかつわかりやすい、とも云える。

つまり、他者から評価されたい、という承認欲求が、行動力の源泉であると推測される。数字で評価されるため、非常にわかりやすい。また、どのようなことをしたら数字が稼げるのか、これまた非常にわかりやすい。まあ要するに、ソーシャルメディアにハマっているひとは、同じようにワーカホリックにもなりえると推測される。このふたつは完全に同じものにはなりえないが、ひとの承認欲求がいかに強く、またそれに振り回される人がいかに多いかという、よい証左であろう。

私の目標は組織に貢献できるのだろうか?

私の目標は、組織に貢献できるのだろうか?

目標を部下に決めさせるスタイルには、明らかな問題がある。たとえば、その部下が組織に取って破滅的な目標(やや語弊があるが、野心と言い換えてもいい)を持っていた場合、それは個人の目標として認められるのだろうか?そして部下が目標を何も提示できなかった時、では組織としての目標はどうなるのだろうか?

組織としての目標や理念、方針を提示することなく、部下に目標を決めさせるスタイルには弊害しかないと云ってもいい。部下の目標が組織に貢献できないと判断した場合、では上司はその目標を破棄させるのだろうか?だったら、最初から組織に貢献できる目標を提示してください、と云っておけばよいだけである。つまり、それは暗黙の了解なのだ。「組織人が上司から目標を示せと云われたら、当然組織に貢献できる目標のことだよね」という、大前提がそこにある。だが、残念なことに、「よい目標」の指標が示されない限り、理論的には部下が「よい目標」を提示してくる可能性はかなり低くなる。まあ、これも当たり前の話しである。

以前にも書いたが、つまり、組織としての目標が提示されないなかでの面談は無意味である、といってもいいだろう。少なくとも、双方得られるものがきわめて少なく、きわめて効率が悪い。さらに云ってしまえば、無意識にせよ「現状維持」を目標にしている組織においては、すべての面談や査定、評価の類いが無意味である。現状から悪化すれば、誰がどうみても、たちどころにそれと知れるからである。

まあ、あれだ、検査の世界って、どうやって変化に耐えるか(とくにマンパワー)、という、ある意味「後ろ向き」の考え方が支配的なんだよねー。一時期あったブランチラボ化にどうやって抵抗するのか、みたいな。まあ、こんなこと云ってる俺も大差ないんだけど。。。

宗谷本線

headlines.yahoo.co.jp

何年か前、北海道でブルベを走ったときに、足を痛めてDNFした。そのときに輪行でお世話になったのが、宗谷線である。たしか、音威子府から旭川まで輪行したのだ。ぼーっと景色を眺めながら、たしか2時間くらいゆらゆらと揺られていた。10人弱くらい、私の他にもお客がいて、自転車が邪魔だったので申し訳なく思ったことをよく覚えている。

利用客数が必ずしも需要を反映するとは思わないし、数字には換算できない事情もあるだろう。しかし、半永久的に利便性を提供するためには、ある程度の収益があることもまた大切で、難しい問題だと思う。個人的には、存続していてほしいし、もういちど乗ってみたいと思う。いちどはゆらゆら揺られて、稚内までいってみたいな。

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熱意は強制できない

「皆が皆、あなたのように熱心に取り組んでいるわけではない」

こんなことを云われた人がいるかもしれない(ほんとにいるのか?)。つまり、熱意や情熱は共有できるが、強制することはできないのである。馬を水辺に連れて行くことは出来るが、むりやり水を飲ませることはできない。自分以外のメンバが熱心に取り組んでくれない、とお嘆きのあなた、それは情熱を共有できていないことが原因だ。細かいことは各々考えて察しろ、というのは、リーダの怠慢である。残念ながら、それは理想ではあるものの、「理想とする状態」であり、云うなれば「best」である。bestな状態は、非常にレアだと心得るべきだ。少なくとも、最初から期待するべきものではない。そんな不確実なものを最初からあてにしているなんて、どうかしている。正気とは思えない。

情熱や熱意、思い入れ、そういったものは共有するものであり、強制することは出来ないものだ。チームリーダは、チームのメンバに対して「察しろ」と云ってはいけない。資料を渡して、「これを読んでおけ(=読んですべて理解しろ)」と云ってはいけない。それは情熱の強制である。情熱の強制は不可能なのだ。熱意は共有するものであり、そのためには仕掛けが必要だ。従って、情熱を共有できていないチームは、リーダがリーダとしての責任を果たしていない、と云えるだろう。

まあ、そこまで機能しているチームは見たことがないですが。。。