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採用について

「就職試験」や「面接」では、採用基準が明確にされないことが多い。自分がなぜ採用されなかったのか、明確に指摘されることなど皆無だと云ってもいい。

これは明らかにおかしい。採用基準を明確にすることは、「私たちはこんな人材を欲しています」という意思表明だし、落選理由を明確にすることは、「私たちはこんな人材は欲していません」という意思表明だからだ。それをせずに、「いい人材」を求めるのは、自己矛盾している。従って、個人へのフィードバックよりもむしろ、ホームページで公表するなど、全体への公表がより重要になるのではないだろうか。

資格や免許などの必要要件は提示されることが多いが、面接での採用基準はあいまいだ。面接官のさじ加減次第といってもいいのではないか。心理学的に、面接官による面接選考の採用は、それほど「いい人材」を確保できない(というよりも、ほかの選考手法よりも優れているわけでも劣っているわけでもない)ことが示唆されている。それでも面接や試験を実施したいなら、これからせめて結果をフィードバックすることで改善できないものかと思わないでもない(自分に関係ない話しだから他人事)。

やたら必死な営業さん

さいきん、
「インターネットがお安く使える用意ができましたので、ご案内させていただきます」
とかゆー、意味不明の案内をたずさえてやってくる、やたら必死な「営業マン」の訪問が立て続いた。

すべて同じような説明をするので、説明させた挙げ句に追い返すわけだが、「なんでこんな安くなるプランがあるのに利用しないの、馬鹿なの?」みたいなようすで書面へのサインを迫ってくるので、うざくってしかたがない。しかも、

「インターネットがお安く使える用意ができましたので、ご案内させていただきます」

という案内の仕方は、「いまある契約をアップデートさせることが出来る案内です」みたいな、事実誤認を誘発させることをねらっているのであろう。事実は、ただの「乗り換え」である。しかも、資料請求をしたら、のらくらと言い逃れて書面にサインだけさせようとする、あきらかに「狙った」営業である。

もう飽きたので、こんどから「転勤の予定がありますので」と断ることにしよう。もう二ヶ月に一回くらい転勤する、超転勤族なんだよ、俺サマ。

OJTのコストは誰が支払うのか?

結論は、「顧客」である。

日本のOJTなんて、「何もやってません」の言い換えみたいなもんだし、
だからそのコストは巡り巡って顧客が支払っていることになる、ということを常に意識したいところだ。

人材の育成について

私は別に人材育成を語るべき立場の人ではないが、思いついたことがあるので少しだけ。

組織の中で人材育成が語られる時、その方向性は「人材を育成したいと思っているひと」、つまりマネージャが語るべきである。検査技師であれば、スペシャリストを作りたいのか、ジェネラリストを作りたいのか、経営感覚の優れた人を作りたいのか、システムに強い人を作りたいのか、いろいろなパターンがあるだろう。組織として、たとえばジェネラリストを作りたいのに、現場はスペシャリスト指向であれば、それは組織の方針と反しているので、「矯正されなければならない」。これは絶対に、「そう」でなければならない。それは無駄なので、まず最初に方向性の提示はなされるべきである。

組織は組織として、達成すべき目標がなければならない。その目標のために、人材育成がなければならない。つまり、目的のある人材育成でなければならない。従って、人材育成を掲げるのであれば、掲げた人が組織の目標を提示し、その目的達成のための戦略のひとつとして、人材育成がなければならない。しつこくフォローアップし、育成が進んでいるのかを確認すべきである。それは目的を達成するための手段なのだから、マネージャの責任である。従って、人材育成を掲げるのであれば、まず達成すべき目標を提示し、そのために必要な条件を提示し、そのために必要な人材の方向性を示し、フォローアップをしつこいぐらいに行わなければ「ならない」。マネージャがそれを出来ないのであれば、そもそも人材育成などと口にすべきではない。

もし目標を提示せずに、意図しない人材が出来上がってしまったら?ある人は、切り捨てて次に期待すればよい、というかもしれない。偶然思っていた通りの人材が出てきたとしても、しかしそれはギャンブルといっしょであり、まず「育成」していないので、人材育成としては、やはり失敗であろう。

椅子の足を作る職人

別に「椅子の足ばかりを作る職人」がいたって、それは悪いことではないはずだ。だが、全体としてみると、必ずしもよいことばかりではない。

ちょうどお役所がその状態で、ある担当者は、自分の担当ばかりを頑張ってこなしている。だが、自分の仕事が全体の中でどのようになっているのか、それは理解していない、そんな感じだ。椅子の足の精度がやたら高くても仕方がない。足がきわめて美しい椅子だ、という評価もあるだろうが、多くの場合、全体の品質を決めているのは、椅子の足だけではない(椅子の足フェチは除く)。

さいきん、微生物そのものに興味が持てなくなってきて困っている。もちろん、極めたわけではないし、「まったく」なくなってしまったわけではない。本も読むし、勉強もする。。。疲れてるのかなあ。