ペンも規制されるべきでは?

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「ペンが剣より強い」という自覚があるなら、ちょっとは慎重に扱おうという意識はないのだろうか?

剣が銃刀法で規制されているなら、その剣よりも「強い」と業界が自覚している「ペン」がなぜ自主規制されないのか、不思議である。銃規制に反対するひとたちと同種の、ある種の傲慢さすら感じられる。報道する、表現する自由は、第三者の基本的人権を侵害してもなお優先されるべき権利なのだろうか。誰がこの被害者の個人情報を望んでいるのだろう?

目に余る事例は規制されるべきで、これは報道機関だけに限らない。個人が広くニュースを発信しうる世の中になったのだから、ペンの破壊力をもう一度考慮し直すべきではないだろうか。

気圧の変化は体調に影響を与えるか?

私個人にとっては、ほとんど影響はないと考える。

理由はふたつ。

  1. 標高2000メートルを超える山に登ったことがあるが、頭痛や体のだるさを感じなかった。また、体調が悪くなるような気配もなかった。
  2. 飛行機に乗った際にも同様に体調不良を感じたことはない。

上記二つの理由により、少なくとも私自身には、気圧の変化は影響がないであろうと推測できる。

私は体が弱く、季節の変わり目にはダウンしていることが多い。天気が悪い日は調子も悪い。しかし、そうであってさえ、気圧の変化が私の体調に影響しているとは(私自身は)ほとんど考えられない。少なくとも、気圧の変化だけでは体調を崩すことはないと考える方がより真実に近い。おそらくだが、ただそんな気がするだけか、気圧の変化に加えて、別の要素が加味されたときだけ体調を崩すのであろう。もしくは、飛行機に乗ったり山に登っているときは特殊な状態にあって、マイナスが打ち消されているだけかもしれない。

まあ、低気圧がダメだと公言しているひとでも、飛行機に乗ったら同じ状態になったという話しを聞いたことがないので、大半の人はおそらく気圧単体では影響がないか、ものすごく軽微なのだと思われる。あまり知られていないようだが、飛行機内は(与圧されているとはいえ)おおよそ0.8気圧程度で、爆弾低気圧なんか目じゃないくらい気圧が低い。そこらへんの低気圧ごときで体調を崩すひとは飛行機に乗ることは不可能だが、あまりそのような話しを聞いたことがないので、おそらく影響は大きくないのだろうと推測する次第である。

ファンギフローラ

なあ、綺麗だろう。。。?
信じられるか。これ全部、「カビ」なんだぜ。。。?

( ' ^'c彡 ))Д´) パーン

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年金は互助だと思ってる

年金をあてにはしていない。あてにはしていけない理由がある。

よく考えてみなくてもわかることだが、この仕組みは「人口が増えること」が前提にある。従って、人口が増えなければ破綻するのが道理である。運用で増やし続けることはまず不可能だ。プロのベンチャーキャピタリストですら、投資の回収は「ごく一部の成功した企業」からしかできない。数字の上では、投資のほとんどは消えていく運命にある。年金を半永久的に、健全に運用し続けることが出来るなんて、誰が信じられるだろう。

社会の仕組みとしてはすばらしいとは思うが、弱点も多い。理解したうえでライフプランに組み込むのは問題ないと思うけれども、あてには出来ない。

乗鞍岳

自転車行けるところで、もっとも空が近い場所。
時間がなかったので日帰りで強行したけど、すばらしいところだった。

うん、まあ、ウチからはアクセスが悪すぎて、二度は行けないけど。。。
松本駅から自走できる脚力があればなんとかいけるかも?)

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ソーシャルメディアで目立とうとする迷惑行為

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常々思うところだが、こういう「ソーシャルメディアで目立とうとする迷惑行為」と、いわゆる「鉄オタが写真撮るために自己中行動をとること」に、何か差があるのだろうか?うーん、よくわからない。少なくとも、ソーシャルメディアで目立ちたいと思わないひと、写真を撮るためにイノチ賭けてないひとからすると、等しく「タダのバカ」で括られてしまいかねない行為ではある。世の人の大半が、これらはどちらのタダの馬鹿、で済ましてしまうであろう。

ソーシャルメディアは人気の度合いを数値化できるところに意義がある。簡単に云ってしまえば、友達百人出来るかな、の世界である。過激なことをやれば視聴者が喜ぶ、だから過激なことをやる、という論理が、まかり通るのがこの世界だ。視聴率が上がる、視聴者数が増えるということは、ここでは正しいことであり、絶対的な評価基準のひとつでもある。だから、ユーザは、ルールに従ってまっとうに評価されようとしているだけなのだ。ほらさー、クズほど仕事が出来る、っていうじゃーん?みたいなー。まあ、どんな手段を使っても「評価される」方法を採っているだけで、非常にわかりやすい基準に従って仕事をしている、実はただそれだけのことで、その点ではきわめてシンプルかつわかりやすい、とも云える。

つまり、他者から評価されたい、という承認欲求が、行動力の源泉であると推測される。数字で評価されるため、非常にわかりやすい。また、どのようなことをしたら数字が稼げるのか、これまた非常にわかりやすい。まあ要するに、ソーシャルメディアにハマっているひとは、同じようにワーカホリックにもなりえると推測される。このふたつは完全に同じものにはなりえないが、ひとの承認欲求がいかに強く、またそれに振り回される人がいかに多いかという、よい証左であろう。

私の目標は組織に貢献できるのだろうか?

私の目標は、組織に貢献できるのだろうか?

目標を部下に決めさせるスタイルには、明らかな問題がある。たとえば、その部下が組織に取って破滅的な目標(やや語弊があるが、野心と言い換えてもいい)を持っていた場合、それは個人の目標として認められるのだろうか?そして部下が目標を何も提示できなかった時、では組織としての目標はどうなるのだろうか?

組織としての目標や理念、方針を提示することなく、部下に目標を決めさせるスタイルには弊害しかないと云ってもいい。部下の目標が組織に貢献できないと判断した場合、では上司はその目標を破棄させるのだろうか?だったら、最初から組織に貢献できる目標を提示してください、と云っておけばよいだけである。つまり、それは暗黙の了解なのだ。「組織人が上司から目標を示せと云われたら、当然組織に貢献できる目標のことだよね」という、大前提がそこにある。だが、残念なことに、「よい目標」の指標が示されない限り、理論的には部下が「よい目標」を提示してくる可能性はかなり低くなる。まあ、これも当たり前の話しである。

以前にも書いたが、つまり、組織としての目標が提示されないなかでの面談は無意味である、といってもいいだろう。少なくとも、双方得られるものがきわめて少なく、きわめて効率が悪い。さらに云ってしまえば、無意識にせよ「現状維持」を目標にしている組織においては、すべての面談や査定、評価の類いが無意味である。現状から悪化すれば、誰がどうみても、たちどころにそれと知れるからである。

まあ、あれだ、検査の世界って、どうやって変化に耐えるか(とくにマンパワー)、という、ある意味「後ろ向き」の考え方が支配的なんだよねー。一時期あったブランチラボ化にどうやって抵抗するのか、みたいな。まあ、こんなこと云ってる俺も大差ないんだけど。。。