医療現場にRPAは有効か

(結論)短期的には有効、長期的には無効。問題を先送りにするだけで、害悪ですらある。

RPAが取りざたされて、消えていこうとしている(気がする)。気がする、と書いたのは、そもそももう興味がなくなってしまったので、情報を追いかけなくなってしまったからだ。RPAの意味が分からない人にはそもそも意味をなさない記事なので、RPAが何なのかは書かない。書きたいことでもないし。

めんどくさいが時間がかかる定型作業をソフトウェアに任せて、オペレータはもっとクリエイティブなことをしようぜ、というのが、RPAを活用するときの基本姿勢である。これを、職種を問わず「現場」に適用しようとしたとき、何が起こったのか。「RPAがあるから、何か自動化しよう」である。RPAがあるから、自動化できることを探し始めたのだ。

本質的には「逆」なのであることを云うまでもなく、何かやりたいことがあるからRPAを使って実現しよう、実現の助けにしよう、でなければならない。これは絶対条件である。

  • そもそもRPAは現状の定型フローを自動化する。定型フローが無駄に満ちていても、それを無理やりにでも自動化する。
  • 結果、制度がRPAになじまない複雑な状態のまま、RPA化される
  • RPAが吐き出す結果を、誰も検証できない、という状態に陥る。
  • RPAが出すこそが正しい、という責任転嫁が起こる。

最終的には、現場の思考が失われる。

医療現場でRPAがなじみにくい理由は明白で、そもそも医療事務の根幹である診療報酬体系そのものが、デジタルに馴染まない構造をしている。したがって、RPA化できるロジックが作れない。制度そのものは現場レベルで変えることができず、RPA化もすこぶるしづらいので、医療現場でRPAが定着し、隆盛する可能性はそもそも低い。

RPAではなく、根本からやりなおす必要があるが、そもそも根本を触れない、というのが、医療事務の抱えるジレンマである。同じ構造を行政手続きも抱えており、もっと云えば、一般企業であっても老舗は変えられない制度を大量に抱えているはずだ(これは労働者の既得権益に由来する。支給条件が複雑な手当などが該当する)。

日本がこのままRPAを推進すると、とんでもないことになるよ、というのが、正直な感想である。

ドキュメント

ドキュメントやマニュアルの大半は役に立たない。体裁が整っていることしか褒めるところがないドキュメントもいっぱいある。読まなくてもわかることしか書いていない絶望的なドキュメントもあれば、読んでも理解できる人がいない、歯抜けだらけのドキュメントもある。
つくづく、ドキュメント作成は、サイエンスに基づいたアートなのではないかと思う。つまり、センスがないと時間だけが浪費され、作る人、読む人、全員が不幸になる。

ドキュメントがそろっているかどうかも、わりとセンスを要求される気がする。これだけだと何を云っているのかわからないが、つまり、必要なことを、必要なだけ、過不足なく、ということだ。抜け漏れダブりなく、要件をリストアップできるというのは、立派な能力だ。たとえば、カレーを作るのに必要な食材を、料理をしたことがない小学生に買いに行かせるシーンを考えてみる。このお使いが成功するかどうかは、買い物にいく小学生の能力ではなく、買いに行かせる側の能力が問われているのは、ほぼ自明であろう。カレーを作るために必要だと考えているものを、抜け漏れなく、伝える技術。抜け漏れなく伝えて、はじめて前提が整う。仮に、買ってきたものでじゃがいもが抜けていたからといって、買い物に行かせた小学生を責めるのは筋違いであろう。・・・じゃがいも、カレーに入れるよね?

ドキュメントを見ない人もいる。過去に不幸な体験をしたのであろう。そういうひとが作るドキュメントはさらに不幸を生み出すので、不幸は連鎖するものだなあ、と思わないでもない(どーでもいい)。

リスクはコストである

リスクはコストである。以上。

ITベンダに、なんだかよくわからないものを、「作って(はーと)」とお願いすると、マージン増し増しで強烈なお値段を提示される。当たり前である。

たとえば、DBのアクセス権限だけ渡されて、「このなかにデータがあるから、一週間でなんか意味のある分析してよ」って云われたら、ほとんどのひとは全力で断るだろう。それが、「この投資のROI計算しておいて」だったら、まだやってみようかという気になるし、集計だけやっておいて、なら、まあやろうか、しゃーねーなー、となるかもしれない。高いものには理由がある。慣れた人が直感的に高いな、と感じるのであれば、それは見積もったひとのリスクセンサが働いた結果なのかもしれない。値段を下げろ、と圧力をかけるより、あれおかしいな、と思って、もういちど振り返る方が良い。

誰かに何かを丸投げすると、いずれコストになって帰ってくる。丸投げのなかには、リスクが相当含まれるからだ。
不思議なものだが、真理である。

マスク

繰り返すが、マスクは「しぶきを撒き散らさないため」につけてください。
感染防御能はないと思いましょう。
あくまでも、しぶきが撒き散らされないために付けるものなので、
ウィルスがスカスカであろうがなんでもいいんです。布だろうがウレタンだろうが。
というわけで、意図しない拡散を低減させるため、
いまの状況下では、マスクはちゃんとつけましょう。

マスクをつけるのを拒否する人がいる?
まあ、国際基準だと、バイオテロリストは即刻○○ですよ?

コロナは見えていなかった断絶を意識させ、より深めた

椅子を作るために、椅子の本体を作る職人と、椅子の足を作る職人がいるとしよう。

凄まじい精度の「椅子の足」(なんだそりゃ)を作る職人を雇えたとして、世界一の椅子を作ることができるだろうか。世界一の椅子だとわかりにくいが、たとえば、世界一「水平な椅子」(なんじゃそりゃ)を作れるだろうか。おそらくどちらも無理だろう。椅子は椅子の足だけでは水平を保てない。

いままでの日本は、担当分野を細かく分業し、パーツを組み上げて新しい製品を作ることを得意分野としてきた。いまだ「日本は技術力の国」と公言し、それに縋って生きていこうとする向きもあるようだが、それだけではまず不可能である。なぜなら、「凄まじい精度のネジ」が作れたとしても、それを求める製品がなければ、意味がないからだ。そして凄まじい精度の高いネジと、ほどほどの精度の安いネジがあれば、ほどほどの安いネジのほうが競争力がある。耐久力でも同じである。100年耐久できるパーツがあったとしても、あまり大きな訴求効果は見込めない。100年経つ前に、他の部分が壊れるからだ。自明である。

日本は、パーツから製品を組み上げる組み上げ産業には長けていたことは間違いないのだが、どうも、そこから新しいものを生み出すことについては後塵を拝しているようだ、というのが一般的な見方だろう。分業し、職人的でありすぎたために、時代の変化についていけていない。こまったことに、分業したものをまとめて新しいものを形作れるリーダが存在しない、ということだろう。

この分業は、断絶を作った。となりの部署が何をやっているかわからない、という会社は多いだろう。このデータ、月末になった隣のA部署に投げるんだけど、何に使ってるかは知らないよ、もう10年くらい続けているから、けっこう重要な分析に使ってるんだと思う、、、蓋を開けてみたら、10年間共有フォルダに蓄積されていただけだった、なんてことはザラにある。ほかにも、今年度に入ってから、なんか微妙に数字がずれるな、気持ち悪いなあ、と思って確認してみると、いやー、ちょっと集計方法変えたんだけど、ごめん、このデータそっちで使ってたんだね、知らなかったよ、とか。ひどいものになると、マニュアルだけ渡されたパートのひとが、なんかよくわからないExcelマクロを叩いて、統計資料を作成していたりする。数字の意味を確認してみると、資料を出している部署なのに誰にも意味を説明できなかったりする。

部署間、仕事間を横断し、とりまとめるリーダがいないことは、それほど嘆くべきことではないとは思う。ある意味、ミドルマネージャ以上の仕事なので、弱点がわかれば対処が可能である。問題は、「椅子の足職人の断絶」をおかしいと思わない個々人の意識のありようだ。これはめぐりめぐって、違う立場の人のありようを理解できない、議論できない、しようとも思わない、というあり方に結びついている。

そもそも立場が異なる部署間のコラボレーションは難しい。
何か大きいことを成し遂げたいなら、リーダだけが強い組織でも生き残れない。

お金と時間と

最近、システムがらみの打ち合わせが増えた。

いわゆる「IT」のことがよくわからないひとを相手に、システムの打ち合わせをするのは骨が折れる。とくに業界特有の「常識」がやっかいだ。これはできて当たり前、という思い込みが、ヒアリングの漏れにつながることが多い。ユーザにとっては、いつもやっていることは、どれだけ特殊なことであったとしても、「いつもやっていること」に過ぎない。したがって、できて当たり前のことなので、大事なことだとは気づかない。

対応に困るのがカスタマイズ要望だ。だいたい希望を聞いていくと、パッケージに合わない部分が出てくる。そこをどうするのかは、かなり悩ましい話で、要件次第ではあるが、取捨選別は必ずしなければならない。曖昧な判断は許されず、なんかしらの根拠をもって対応しないといけないものだ。

課題の切り口のひとつに、「コストパフォーマンス」がある。
コスパを評価するときに大切なのが、課題が発生する「頻度」と、処理に要する「所要時間」である。したがって、ヒアリングの時には漏らさずこれを聞くことになる。カスタマイズの要望はたいていコスパに見合わず、個別に対応すると割りに合わないことが多い。そのため、どこかで切り捨てることになる。

よく云うのが、「システムって、たいていのことはできるんですよ。お金と時間が十分あれば」である。さいきんこれに、「愛と勇気」を加えることが増えた。たいていウケるのだが、冗談を云っているつもりはまったくない。

「システムってたいていのことはできちゃうんですよ。お金と時間が十分あれば。あとは、愛と勇気ですね」

お金と時間が十分あっても、残念ながら、愛と勇気がなくて頓挫するケースもある。むしろ、愛と勇気はお金よりも大事かもしれない。そのことを理解してもらうのは、かなり難しい。

コロナの検査の話をしよう

不可抗力の国難などどこにもない。ただ、自分たちで不安になって、自分たちで自爆しているだけだ。

headlines.yahoo.co.jp

またこの手の記事が湧いてきたか、と思うと、なにやら暗鬱たる気分になる。気持ちが沈み、ため息の一つでもつきたくなるというものだ。これだけ医学的な観点から検査の現状について解説している記事が出ているのに、まだこんなことを書くジャーナリストが存在するのか、と思うと、割と絶望的な気分に陥るし、また10年後も、別の誰かが同じことを繰り返すのだろうと想像せざるを得ない。現状を省みてよりよい状態を模索していくのは必要不可欠なことだが、その意見は妥当性が高くなければ意味がなく、ただの批判は往往にして議論に昇華できずに混乱を招くだけだ。

まだ「保健所の拒否」がまかり通る
 厚生労働省は3月4日、新型コロナウイルスに感染したかどうかを調べるPCR検査に6日から、健康保険を適用する、と発表した。一見すると、従来に比べて、一歩前進のように見える。だが、実はそうでもなさそうだ。
 PCR検査を受けたいのに、受けられない「検査難民」が続出しているのは、ご承知の通りだ。日本医師会は4日、医師が検査を求めたにもかかわらず、保健所の判断で断られたケースが3日時点で7道県医師会で30件に上った、と明らかにした。全国では、はるかに多いはずだ。

 こうした事態が世間の強い批判を受けて、厚労省は遅まきながら、検査の保険適用に踏み切った。そもそも「医師が必要と判断したのに、保健所が拒否する」仕組みがまかり通っているのが、おかしい。
 医師は対面で患者と向き合って診察しているのに、保健所は電話相談にすぎない。それで、どうして医師でもない保健所職員が患者の状態を適切に判断できるのか。常識で分かる話だろう。断られた患者や医師が憤慨するのは、当然だ。

外側から見れば保健所が拒否しているように見えるのは仕方がないが、この記事は「保健所の取材をしているのか」疑問である。保健所は国で議論されて決められた症例定義にしたがってrejectしているだけで、保健所が主体的に拒否しているわけではない(すべての保健所が理解してrejectしているかどうかは怪しいが)。理由はすでに散々他記事で解説されている通りで、全例検査すれば混乱をきたすためである。

  1. 医療資源は無限ではない。検査はあらゆる意味で魔法ではないとご理解ください。すでにいろんな記事が出ていますが。
  2. 検査には感度・特異度があります。陽性だからといってすべてがコロナではないし、陰性だからと云ってコロナではないと断言できません。
    1. 市中に患者が少ない状態で、疑い例に検査を片っ端からやると、理論的には偽陽性が増えます。偽陽性をぜんぶ医療対応したら、現場が崩壊します。
    2. 感染症対応できる部屋をすべて埋めてしまって、仕方なしに一般病棟にいれたら、どうせ非難の対象になるんでしょ?で、重症例が必要な治療を受けられなくなるわけだ。
    3. あのHIVスクリーニング検査であっても、1000人に一人くらい見逃しますし、陰性を陽性と誤判定します。これは技術の限界です。

検査難民ということばは便利だが、必要なのに検査が受けられない状態をさすべきであり、現実、「検査難民」とやらの大半は、ただの検査が必要ない患者にすぎない。繰り返すが、現時点のリソースの問題から疑い例を全て検査すれば、「検査難民」が発生することは間違いないことは容易に推測できる。これでは「ただの自爆」である。

大事なのは、助けられる命を助けることだ。このジャーナリストには納得しがたいのかもしれないが、PCR検査は、一般市民の安心のために検査をしているわけでは決してない。ましてや疫学調査のためなのでは決してないのだ(疫学調査を兼ねていることは云うまでもない)。コロナであろうがなかろうが、ARDSをきたした重症例を放り出すようなことは決してしない。逆に、コロナであろうがなかろうが、軽症例を入院させて呼吸管理をすることなどあり得ない。そんなリソースは病院にはないのだ。野戦病院を想像してもらえれば、医療リソースの問題はイメージできるだろう。

武漢で死亡率が高いのは、医療レベルの問題ではなく、リソースの問題である可能性が高い(武漢は都会である)。医療が重症例に届かず、却って死亡率を高めている。軽症例はほうっておいても回復するのだから、そのような状況下において、軽症例に医療リソースを割く意味はない。そのリソースは、重症例に割り当てられるべきであることは、病院の使命を考えれば、自明である。

繰り返すが、大事なのは、助けられる命を助けることだ。善良な一般人の不安を取り去ることでも、社会要請に応えることでもない。
そのために必要なことはときに冷徹に見えるかもしれないが、それでもこれがいま取れるbetterな方法なのである。


もうひとつ加えて云えば、、、
そりゃーさー、いまの状況で、「これ風邪ですわ、HAHAHA!」とか云って帰宅させた患者がじつはコロナでさ、後日、あの病院にかかって誤診されました!みたいな報道されてみ?怖くてまともな診察なんかできねーだろ。
ふつうの心理として、じゃあ世間様じゃコロナ出てるみたいだし、症状から鑑別つけられないし、たぶん違うと思うんだけど、とりあえずコロナの除外したいからコロナの検査やっとくか、みたいな流れになるだろ、ふつう。
で、それを全例検査したらパンクするの、目に見えてんじゃん。
それを、「医師の判断を拒絶するのか!」なんて云われてもなー。
産科の医療を崩壊させたときのことを思い出せよ、マジで。