検査はすべてをつまびらかにするか

検査してもわからないことがある、なんて単純な話ではない。

心配なのでCTを定期的に撮ってください、という患者がいる。この患者は何を期待しているのだろうか。CTを取れば、いま自分の体の中の様子がすべてわかり、なにも異常が見つからなければとりあえず「安心」できる、とでもいうのだろうか。果たして、それは正しいか?

検査には感度・特異度があり、それぞれの検査には限界がある。そのlimitationは検査の手法的な限界であったり、判断する人間の問題であったり、技術的な課題であったりするわけだが、検査は決して万能ではない。加えて、絶対でもない。あくまでも診断を支える補助的なツールである。だから医師の判断が必要なのだ。検査をやってもやらなくても医師の判断が変わらないのであれば、その検査はやるべきではない。それは医療資源の問題である。

軽症例に対して、果たしてコロナウィルスの検査は必要だろうか。

このいい前例として、ノロウィルス検査がある。私はこれを史上最悪のクソ検査だと公言しているが、上梓された頃のこの検査キットは感度が7割しかなく、真の陽性患者10人を検査した時、7人しか陽性にしかならなかった。陰性でも真の陽性が少なからず混じるため、この陰性結果はまったく信用できないが、この検査が保険適用されたものだから、この結果をもってノロウィルス疑いの感染対策の実施内容を決めようとする医師が続々現れた。云うまでもなく、この結果が陰性だからといって、ノロウィルスが否定されるわけではない。そのため、結局、ノロウィルスを疑う患者に対しては、検査結果に関係なく、ノロウィルスを想定した感染対策を実施することになる。また、陽性になったところで、治療法があるわけでもない。この検査を実施したことによって、ほとんどのケースで、何も変わらない。臨床的なインパクトはほぼ皆無である。強いて云えば、食品関係の業務従事者の業務上の手続きがやりやすくなるくらいだ。

こんな検査、やる意味があるのだろうか?

コロナウィルスの検査が保険収載される様だが、重症例以外のコロナウィルスの検査には臨床的意義に乏しい。こんな検査を乱発すれば、今度は特異度の問題から大混乱をきたすし(どんな検査でも、一定数、偽陽性がでる)、ほんとうに医療崩壊が生じかねない。

検査してもわからないものはわからない。検査は、適切に使って初めて意味があるのだという当たり前のことを、まずは大前提とするべきである。

マスクに意味はあるのか

10年前にも同じ記事を書いた。世間様はまったく変わっておらず、相変わらず微笑ましい。
kisaragi5.hateblo.jp

マスクは拡散させないために着用するものだ。まずここを認識してほしい。マスクをしないとたちどころに感染して死ぬわけではない。マスクをしていたら感染しないわけでもない。したがって、感染者が周辺にほとんどいない状態でマスクをヒステリックに着用する必要はない。だが、感染者が増えてきたらマスクは拡散防止に有効だ。あくまでも拡散の防止に対して有効なのだ。

マスクに感染防止効果があるかどうかについては、昔から議論されてきた。いちおうもっともらしい回答もあって、「適切に扱えば効果があるかもしれない」。誰も科学的に確からしい検証できていないので、これ以上、議論のしようもない。理屈の上では、

  1. マスクの前面を触らない
  2. マスクは適切な頻度で使い捨てにする(適切の定義は不明)
  3. 廃棄するときには、紐をつまんで廃棄し、廃棄後、アルコールで手指を消毒する

など、注意が必要で、適切に扱えば、感染を防御できる可能性がある。

これは、マスクがウィルスを止めている(=感染防御能がある)という前提の、理屈の上での話だ。この仮定に従えば、止められたウィルスはマスクの前面に付着しているため、そこに触れてはならない。触れると、ウィルスが手指に付着し、回り回っていずれは口の中に入るだろう。そこですべてが無駄になる。大半の人はマスクを「適切に」扱えないため、結果的にマスクは飛沫感染のウィルス感染を防げないことが多い。少なくとも、電車で吊革をにぎったその手でガムを取り出して食べているひとには、(結果的に)マスクは効果がない。

マスクをしていたら安心なわけではない。その結果、感染が防御できるかどうかが大事なのだ。マスクは目的ではなく、ただの道具であることを認識してほしい。

2019-nCoVは飛沫感染だと云われている。エアロゾル感染という表記をみたが、云っていることは飛沫感染なので、すべて置き換えて構わない。エアロゾル感染が空気感染だという話も目にしたが、まったく異なるし、この文脈は間違いだ。デマだと云ってもいいし、これを拡散したまとめサイトの行為は、世間に不安を拡散したという観点から、「マスコミュニケーション・テロ」だと云ってもいい。基本再生産数をみても、現状インフルよりやや高い程度なので、おそらく飛沫感染であたりだろう。空気感染だとR0が10超えてくるので、統計的にも飛沫感染だという判断は妥当性が高い。そうであるなら、対策はインフルエンザに準じて対応する。ウィルスが変異して空気感染するかもしれない可能性が心配なら、もちろん一般人がN95マスクをしても構わない。理解した上で選択するなら、それは自由だ。だが、パニックになっているだけなら、まずはいちど深呼吸して、明日も生きている自分を強くイメージすることをオススメする。

手をしっかり洗う、首から上を触らない、これがもっとも有効性の高い自衛策である。ここから派生して、手づかみでものを食べないことを意識する。エレベータのボタンを利き手で触らない。スマホを触った手は汚いと意識する。無機物に付着した2019-nCoVがどの程度活性を保つかは知らないのでなんとも云えないが、知見が得られるまでは、インフルエンザ相当には活性を保つと考えておくべきだろう。つまり、一般人がやることは、インフル対策となんら変わるところはない。

死亡率が高い、という話もあったが、すでに散々解説されている通り、ただの数字のマジックから生じた誤謬である。疫学の実態は、ほぼインフルと変わらない。基礎疾患をもつ患者が死にやすいのも、インフルエンザと変わらない。

マスクが売り切れて、品薄になってしまう理由が本当にわからない。10年前にも同じ状況になった。あのときもヒステリックに不安が拡散された。N95マスクをしている一般人まで出る始末だった。電車にはN95マスクの下にガーゼを挟んでいるひとをみて、(本当に)絶望的な気分になった。

また10年後も、同じように、似たようなシチュエーションで、似たように騒いでいるのだろうか。

高齢者の車の免許について

そもそも論的に、車の運転は全国民等しく禁じられており、一定の技能を有すると認められたものだけが、運転行為を認められている、というのが大前提。
つまり、免許更新時に技能試験を課したらよろしい。ただし、全員にだ。
高齢者だとか若年者だとか関係なく、
人格的に運転を許可してはまずいひともいるだろうし、
病気で運転できなくなったにも関わらずごまかして運転している人もいるだろう。
技能の衰えは誰にでも起こりえるし、
そもそもペーパドライバなんて意味のわからない単語も死語にしてしまうべきだ。
ペーパドライバの運転と高齢者の運転、孕んでいるリスクに明確な違いがあるのだろうか?

そもそも免許の性質を考えてみれば、更新時に技能試験を課すのは制度的妥当性がある。
教習所は新しい商品(更新試験対策講座、とか)ができてうれしいだろうし、更新に必要な時間は法律的に休日を付与したらよろしい。

臨床検査技師の免許には欠格事由があり、たとえば、目が見えなくなったら(全盲)、免許を剥奪される。
「危険行為を許諾される」とは、そもそもそういうものでは?

定期的にインフラ止めよーぜ

水、電気、ガスは、定期的に不自由になった方がいい。
更に云えば、電車、バスなどの公共交通機関も、定期的に不自由になろう。
テレビは映らなくなってもいいし、ラジオはサボったらいいし、
郵便は届かなくなってもいい。テレビ局はときどき砂嵐を流して
番組制作をサボったらいいんじゃないか。

電車はもっと遅延してもいいし、
バスはいまでもしょっちゅう遅延しているけど、
便そのものが突然なくなるとか、あってもいい。
飛行機は飛ばなくなってもいいし、車はもっと性能が落ちてもいい。
ガソリンスタンドは臨時休業したらいいし、
スーパーは三が日働かなくてもいいだろう。

銀行はときどきお金を引き出せなくなったらいいんじゃないか。
病院はときどき医師が脱走して外来を閉じたらいいし、
帳票システムがダウンして帳票が印刷できなくなったらいいし、
オーダリングシステムがダウンして検査オーダが出せなくなったらいい。

よーするに、ときどきわざとダメになろうぜ、ってこと。
何かがダメになったら致命的なダメージを受けるシステム、制度、生物、その他諸々って、
弱すぎません?

RPAの怪

正直、即刻RPAをやめないと、これから先ずっと生産性は上がらないのではないか、もしかしたら破滅の時を先延ばしにしているだけなんじゃないか、という、危機感がある。

日本でこれだけRPAがもてはやされる理由はもはや明確で、つまり「日本人には改革などできない」のである。制度を変えることができるだけのリーダーシップを発揮することができるリーダーが、ごくごくわずかしかいない。だから旧態依然の制度のまま、旧態依然の仕事を訥々と繰り返す、それが「仕事」になっている。その仕事を、RPAで無理やり「自動化」する。属人化し、複雑怪奇になった仕事を、わざわざブラックボックスの中に叩き込む。数年後、どうなるかは、火を見るより明らかだ。制度を変えることもできず、もはや人の手で処理することもできなくなった「仕事」は、RPAにやらせるしかなくなり、RPAに仕事を合わせるために複雑怪奇な仕事をさらに複雑にする。そして、それが「仕事」になる。

つまり、仕事をすることができる人材が異様に少ないのだ。現状、RPAはただのごまかしに過ぎない。
これから先、日本が「ものづくり」で復権を果たすことはおそらくない。ものづくりのカイゼンは日本の得意技だったが、同じ様式をITにもちこんだのは大きな過ちだったと云えるし、組織を変革することに、現状、成功できている事例は少ない。いったんRPAから離れて、根本的に制度を作り変えるスキルを身につけなければ、いまに大変なことになるだろう。

想う

すごい暴論を書くけれども。

いろいろあったんだけど、いまは結構真面目に思う。

向いているかもわからないのに、こうと決意して、
つらい受験もクリアして、年単位で勉強して、
時間を作りながら試験勉強して、クリアして、
そして真面目に勤め上げる。
自己研鑽して、働いて。

向いているかどうかもわからないのに、
自分の決めた進路を一生の仕事と決めて立ち向かわなければならない、
この現状のシステムは、どこか歪な気もする。

やりなおせるとひとは云うけれども、
やりなおすためには、どうにもひとの寿命は短すぎるんだよ。

RPAについて

かなり暴論であることを先にお断りしておく。

RPAのブラックボックス化は、委託した業務がブラックボックス化するのと、構造的に何も変わらない。委託と役割分担は、結果はいっしょでも、ニュアンスがまったく異なる。委託先に預けた業務を、「委託先が処理しているので私にはわかりません」と臆面もなく云えてしまう組織は要注意だ。それは委託ではなく、丸投げだ。

日本のIT業界は丸投げが成立しやすい多重下請け構造を「なかば常識として」持っているが、私にはこれがずっと理解できなかった。IT業界だけではなく、外注と称して、めんどくさい部分を切り離し、丸投げする風潮が全体に浸透しつつある。問題は、切り離す基準だ。たとえば、グループ会社の給与計算を統一し、本社業務から切り離して集約、一元化する、という思想でもあれば、まだ問題は少ないように思うが、RPAに関して云えば、その導入は「どうも俺たちにも魔法の杖が手に入るみたいだから、いっちょ振ってみるか」程度のことでしかない。RPAの導入ベンダも、「私たち、コンサルティングできませんので」と平然と云ってのける。「売り切り」だ。物を売るのと大して変わらない感覚でRPAを売っている。バカ以外の何者でもない。

これこのまんまじゃ、まずいんじゃないの、と思う。RPAの対象は「時間がかかる」「複雑」「標準的」な業務だと云われるが、そもそも日本のシステムは標準的なパッケージを嫌って(エンジニアが)死ぬほどカスタマイズを入れている、属人的(?)業務が主流である。標準なんてどこにあるの?そこをRPAでさらにブラックボックス化するわけで、「委託しているので知りません」マインドの日本人がRPAなんてつかいこなせるわけねーじゃん、と思うのは自然なことだと思っている。つまり、このまんまだと、スパゲッティみたいになったコードのように、数年後に怨嗟の悲鳴が上がってくるに違いない。

南無三。