パスワードの変更について思うこと

パスワードを定期的に変更することは意味がない、という議論「も」ある。答えのでない、めんどくさい議論だ。

そもそもパスワードを定期的に変更するのは、セキュリティをより強固にするためである。問題は運用だ。破られやすい安易なパスワードを使い回したり、覚えられないから紙に書いて貼ったりする。生体認証に一縷の望みを託す向きもあるが、現時点では、民生品としてあまり期待できない。また、指紋認証がそれほど強固なセキュリティというわけでもない(現状では静脈認証がもっともセキュアな生体認証だろう)。

ただはっきりしているのは、自分がめんどくさいから、パスワードの変更は意味がない、と主張する一部の人たちは、パスワードを変更しようとしまいといっしょだ、ということだ。つまり、そういう人たちのさらに一部は、「いちばん脆弱なパスワードでパスワードを固定する」ことが容易に想像できるので、けっきょく制度として定期的に変更せざるを得ないのである。めんどくさいかもしれないが、やらないよりマシ、ということだ。

セキュリティトークンもありだろうが、意外にかさばり、不便ではある。そう考えると、やっぱりパスワードを定期的に変更することには一定の意味があるのではないかと思うのだ。

いやだって、無意味な文字の羅列を10文字弱覚えるだけじゃん。ワケわかんねー、メーカが適当につけた薬の商品名いっぱい覚えてる連中がさ、たかだか10文字弱の文字列覚えられないとか云ってゴネるの、どーなのよ?覚える気があったらできるでしょ?

職人は不要か

「職人」が不要になってしまった。AIの台頭を見るにつけて、そう思う。

個人的には認められないが、もはや「一つのスキルを極限まで磨き上げる」必要性がほとんどない。基本的に、反復する動作はすべて(ある程度のレベルで)機械化できてしまうため、作業の一つ一つに対して高いレベルでの習熟が必要なくなってきている。結果、どのようなことが起きているのか。もともとひとつの動作を極限にまで磨き上げることを是としてきた日本人にとって、価値の転換を迫られているのではないかと感じる。

包丁を極限にまで磨き上げる技術も、おそらくRPAで再現できるだろう。日本刀を再現することも、最終的には可能であろう。「職人の感覚」に相当する部分は、膨大なデータさえあれば、ほぼ間違いなく再現できてしまうのだ。データの蓄積は必要だが、特定の分野に限れば、AIは人間をはるかに凌駕する能力を持っている。

医療の世界においても、同じことが起きるだろう。「診断」は、AIの仕事になる可能性がある。画像を含む膨大な検査データを読み、診断候補を挙げることは、いまでも技術的に可能であろう。身体所見は難しいかもしれない。AIに体性感覚がないからだ。もしかすればだが、AIに痛みや喜怒哀楽などを覚えこませることができれば、身体所見も取れるようになるかもしれない。AIに人格が芽生えるかどうかについてはなんとも云えないが、少なくとも体性感覚抜きでは喜怒哀楽を理解することはできず、したがって人格が芽生えることもないだろうと想像する。

AIによる医療は、医師の物理的な負担を軽減するだろう。検査結果の読み落としはなくなるだろうし、微妙な検査結果の変化から、今後生じうる疾患を推測することも技術的には可能なはずだ。したがって、医師に求められるのは、治療方針の提案と決断である。昨今、重々に説明を重ねて患者に治療方針を選択させることが多いが、提案まではAIがやってくれる可能性が高く、方針の決定も患者の仕事になるなら、医療は自動化できるかもしれない。医師の仕事は研究のみになるかもしれない。

検査技師はどうだろうか。検査技師はまさに職人気質のコメディカルだが、仕事が無くなる可能性を否定できない。少なくとも、生化学的分野はそうそうにAI化できてしまう。QC結果を測定器に連動させてメンテナンスを自動化するなんて、なんの問題もないはずだ。

AIの台頭は職を奪う。それは間違いないと思う。ただ、それは時代の変化であり、いままでは「職人」が必要な時代だった、というだけである。いまは、「変化」を起こせるもの、対応できるもの、つまり、AIでは対応できない価値を生み出せるものが必要とされているだけである。

コミュニケーション

チームでまずいのは、コミュニケーションが途絶えることだ。

たとえば、いつまでも悶々としながらひとつの問題にひっかかっているメンバがいたとする。新人なら勉強がてらそのまま迷わせておいてもいいかもしれないが、それが通用するのは、新人がたたき出すアウトプットが、チームに取って著しく小さいときに限られる。新人の担当する作業が、悩んでいる間中、無視できない負荷になるなら、悩ませておく時間はありえない。にもかかわらず、悩み続けるのは、そもそも新人ゆえに自分の作業価値を理解できていないか、理解していてなお相談できない雰囲気があるのか、そもそも悩んでいる状態が大好きなマゾなのか、まあいずれにせよ、望ましい状態ではない。

基本的には、そのひとのアウトプットがどの程度重要なのか、という点で決めてもいいと思うが、OJTの名目のもと、チームのアウトプットに影響を与えるまでに「OJT」を実践するのはありえない。チームのアウトプットは顧客に納品されるべきもので、したがってOJTのコストを顧客に払わせることは、やってはならない。

システムというもの

「お手上げです」と云わないのがプロのプロたる証だとすれば、システム保守の現場は、あまりにも考え方が違いすぎる。

システムはいちど稼働すれば「間違いなく」動き続けるものだというのは誤解である。むしろ、あんなものが「間違いなく」動き続けていることに驚嘆する。考えてみてほしい。臓器の位置も、構造も、成分も、働きも、血管やリンパの走行すら個別に違う人間を、「全部説明書に書いてあるから、治療よろしく」と云われて十全に治療できるとでもいうのだろうか。間違いは許されず、万が一説明書に書いてなければ、仕組みがどうなっているかはまったくわからない。わからない部分を検査することはたいていのケースで許されない。これが、現代の病院で稼働している「システム」である。生物の複雑さにはとうてい適わないが、それでも複雑に絡み合っているという点で、一個の生物のようにも感じられる。

こんなものは理想論に過ぎないが、仮に100%の稼働を求められた場合、現場はどうなるか。過剰に保守的になるのである。欠けているドキュメントは許されないし、グレーな運用は明確にせずにはいられない。見通しが立たないことは引き受けられないし、契約外の仕事は絶対に手を出せない。極論ではあるが、100%を強要すると、多かれ少なかれ、現場は萎縮する。

どこの世界でも同じである。かつて、産科の世界で起きた問題は、いまもなお、形を変えて、いろんな世界をダメにしている。だから、これは医療の問題でも、ITの問題でも、ましては個別性の問題でも、なんでもない。リスクを過剰に避ける心理的な働きの結果であり、無理解の結果でもある。みんな、自分の狭い世界の外を、理解しようとはしていない。

電子カルテの導入に対して思うこと

電子カルテの導入を行う際には、まず、「カスタマイズするという選択肢を捨て去る」ことが大切だ。綺麗さっぱり捨ててしまって、既製品のパッケージに合わせて仕事をすると決めてしまう。そこから、「そもそもこの業務って。。。」と考え始める。

大切なのは「カスタマイズを撲滅させる」ことではなく、「そもそも論で業務を見直す」ことであり、カスタマイズの可能性を捨て去ることは、「そもそもこの業務って必要?」という議論を誘発するためのきっかけに過ぎない。そうしなければ、必ず(必ず!)、何も考えずに、いやむしろ何も考えないために、「過去のシステムで出来ていたことを新しいシステムでも再現しようとする」。システムで収集すれば一発で済むのに紙の申請書が残っていたり、二重に転記するワークフローが残っていたりするのは、これが理由である。そもそもその業務って必要?という見直しがされていないからだ。従って、一度はカスタマイズが出来る可能性をなくして、業務を見直す必要がある。

もうひとつは、部署単位の縦割りでシステムを議論すると、無駄が残りやすい。この場合は、「そもそもこの業務って必要?」という議論が出来ないためだ。「とりあえず従来の業務フローがこうなっているから、これからもこの業務は必要なことなんだろう(よく知らんけど)」みたいな状態である。この「よく知らんけど」と誰かが云いだしたら、要注意。そこに壁があって、向こう側が見えていないサインだからだ。このような状況に陥ると、下っ端だけではどうにもならず、部署の所属長どうしが認識をすりあわせる必要が出てくる。

従って、電子カルテの構築に、病院側には、いわゆるエンジニアは不要である。必要なのは、ベンダでもコンサルでもいい、「素人に対して提案が出来る高いスキルを有した導入担当者」と、「病院のワークフローを整理できるリーダー」であり、さらに加えて「病院の方針を決定できる優れた経営幹部」である。全員が「全体最適の観点から議論できる」ことが必要であり、これがすべてといってよい。

ワン・チーム

チームで成果を出す、ということについて、よく考えるようになった。
だが、ここで何気なく口にする、「チーム」とは、何を指すのだろうか?どこまでがチームメンバなのだろうか。
それは、いわゆる「身内」とは違うのだろうか。

たとえば、「正規職員」と「委託業務職員」でひとつのチームを形成したとしよう。このチームは、ある単純作業ではない、何らかの仕事を与えられ、成果を出すように求められている。判断に関するところは正規職員に、手続き作業に関係するところは依託業務職員に委託される。さらに、専門性が高く、頻度が稀な業務は、外部の業者に委託する。そんな環境だ。

この場合、どこまでがチームなのだろう?こうやって書くと、「外部の業者も含めてチームだ」と云ってほしいのだろうな、という雰囲気すら漂うが、現実問題として、そのように考えて行動するチームが存在するだろうか。たとえば、何らかの原因で、外部委託の業者の負荷が異常に高くなったとして、じゃあ外部業者の負荷を考慮して。。。といった行動を実際に取るチームがありえるだろうか?

だが、実際には、成果を出す、といった観点からは、外部の委託業者のアウトプットが成果に著しく影響するならば、外部業者の高負荷は無視できないファクタだ。そもそも外部委託していること自体が間違いかもしれないし、たまたま起こったきわめて稀な現象なので、涙を飲むしかないのかもしれない。そもそもお金を払って業務を委託しているのだから、結果さえ納品してもらえればそれでいいんだよ、負荷なんかそっちで調整すべきだろ、という考え方もありえる(というか、それが普通だろう)。だから、個人的には、同じゴールに向かっているならば、すべてチームメンバである、という立場を取りたいと感じる。

何が答えというわけではないのだが、チームとして成立するためには、コミュニケーションが必要なのだな、と最近よく思う次第である。

答えはあなたの中にしかない

たとえ相談されたとしても、「答え」を提供することは出来ない。答えは相談を持ちかけてきたヒトの中にしかない。

これはべつに言葉遊びでも何でもなくって、そのまんま、その通りなのだ。相談されたヒトの中には、相談者が抱えているような課題、問題は存在しない。これを短時間で相談者と同じレベルで共有することなど不可能だ。課題や問題が存在しなければ、とうぜん「答え」も存在しない。答えに近づくためのきっかけやヒントは提示できるかもしれないが、「答え」を教えることは、誰にも出来ない。

外部のコンサルタントを雇って「高い金を払ったのに、役に立たなかった」と嘆くひとがいる。もちろん、そのコンサルタントが能力不足で、求められる成果を提示できないこともあるだろう。だが、多くのケースで、コンサルタントを雇った側が、「生徒」になってしまって、親鳥が答えを投げてくれるのを馬鹿みたいに待っている傾向が強い。

問題はあなたのなかにしかない。
だから、答えもあなたの中にしか存在しない。