レビューの怪

Amazonで欲しいものを検索していると、いろいろな製品のレビューが参考になる。実際に使ってみたものの、あまり期待通りの性能ではなかったとか、予想以上に性能を発揮してくれたとか、意外な使い方が見つかったとか、いわゆる口コミで製品の中身を知ることが出来る。比較的ぶっちゃけた話しが多いので、価格.comなどで紹介されているコメントは、少し高いものやレアなものを検討するときに参考にしている。もちろん最終的には自分の判断で買うわけだが、いま一歩の後押しが欲しいときなんかにはもう最適で、コメントでころりとやられて買いに走る御仁も多かろう。いや、自分で云っててそうは思わないけど。

ところで、まだ発売されてもいない製品に対してレビューとはこれ如何に?ふとしたことからP4でも買おうかと思ってAmazonを覗いてみたのだが、不思議なくらいレビューがあってびっくりした。発売されてもいない製品に対して、何と103のレビューがついていたのである。それぞれ自分の好き勝手なことをごちゃごちゃと述べているのだが、すごく不思議な光景だと思った。中には「筆者」という一人称(だと思う)もあって、すごく面白かった。なんというか、みんなそうやって大上段から語りたいのだなあ。ここのレビューワは基本的にド素人とでもいっていい人たちなのに、評論家でも意識しているのか、「筆者」という一人称は大げさすぎてアンバランスな感じが逆に微笑ましい。ああ、エラいこと書いているなあ(苦笑)。

そもそも「評論家」という肩書きは、「評論」家じゃないのではないか、と思うわけだ。つまり、評論家と名乗った時点で評論家ではない。ある分野について評論出来るほどの見識を持っているのであれば、それはすでに何かの専門家であって、評論家という肩書きではない。もちろんこれは屁理屈なのだが、そういうわけで、どうも評論家という肩書きに対してはうさんくささを感じてしまう。そういったひとたちが未発売の製品に対して、あーでもないこーでもないと「評論」しているところを見ると、(こういうひとたちは、大上段から切って捨てたり褒めちぎってみたり、一歩高いところから「評論」したいんだろうな)と思ってしまう。どう感じるかは個人の自由で、別にレビューに書き込むことは必要ない。個人ブログにでも書いたらよい。個人ブログを持っていないひとでどうしても書きたいのであれば、そこらへんの掲示板にでも書けばよろしい。にもかかわらず、そして冷静になって考えてみればまったくレビューになっていないレビューを製品レビューの欄に書き込むという、TPOをまったくわきまえない迷惑行為をしてしまいたくなる原動力は、おそらく「語りたい」からなんだろう。なんか上からの視線で、「ストーリィがなってない」とか「システムが不親切だ」とか、果ては「改善に期待する」とか……

語りたいひとたちを邪魔するのは野暮というものだろうが、それで機能不全に陥っているシステムを見ると、(やっぱりこういう要素を排除するのは難しいんだなあ)と感慨に耽ってしまうことよ。ええそうですよぅ、私も書きたいから書いているんですよーだ。