先人の知恵

「先人の知恵」について、どうこう云うつもりはないけれども。

先人の知恵からしか学ぶことが出来ないなら、そりゃ年を食えば学ぶことが少なくなっていくから、相対的に思考の柔軟性が失われ、馬鹿になっていくのもしゃーないわなぁ。残念だけど、つける薬は見当たらない、不治の病と云ってもいいでしょう。

価値ある人

自分に価値がないのではないかと不安になるひとは、そのままだとたいていそのひとが思っているような「価値」はないので、それを伝えた方がいいのかどうか、かなり真剣に悩むところではある。それをそのまま伝えたら、そのままぶっ壊れそうだしなー、でもちゃんと現状を認識しないと、永遠に不安なままだよね、とか。

そもそも論的に、そういうひとが考える「価値がある人」って、おおむね漫画のなかにしかいないような、「価値がある人」なわけですよ。「価値がある人」って何なんでしょう?説明を求めても、冗談みたいな答えしか返ってきません。まずは、「価値の定義」が現実的かどうか、考えてみるところから始めてみたら?

方法論にこだわらない

みんな、「所定の手順」が大好きである。

これはなぜなんだろうと、以前から不思議だった。微生物の世界にも、じつは公定法がある。みんなが同じ手順で検査を実施することで、結果が一定の水準で保証される。独自の手順を入れ込むと、こんどはその独自手順が結果に影響を及ぼしている可能性を排除しなければならない。そういった可能性を検討し、定められた保証された手法が、公定法である。

この「所定の手順」を定めると、基本的には思考停止してしまう。改善することも、改訂することも、無視することもできない。だが、この手順に従っているうちは、失敗しても、仮に根本から間違っていたとしても、非難されることはない。それは「手順」がまずいからだ。「悪法でも法律は法律」である。だから、組織はマニュアルにこだわりがある。どんな方法でもいいから、「各自」効率的に業務を処理しろ、と広言している組織は、あまりお目にかかれないと思う。

これが単純な製品をラインで扱う製造業とかならマニュアルも必要だが、逆に方法論にこだわるひとを大量に生み出した気がするし、方法を教える教育にもつながっている気がする。

実のある会議

会議のエライひとから、「テメーラ報告がなげーんだよ。もっと短くしろ」とお達しが出た。ちなみにこの会議は、私は出席していない。にも関わらず、こっちにお鉢がまわってきた(「お鉢が回る」とは本来いい意味のはずなんだが)。

会議でいちいち資料を読み上げるなんて愚の骨頂だが、正直なところ、その愚の骨頂を愚直にやっている会議なのである。会議の目的にもよるが、会議の目的が「情報の共有」では意味がない。情報の共有なんか、資料を読めば達成できる。資料を読んだだけでは解釈に相違が出るが、それは会議で資料を読み上げても変わらない。誰も質問しないからだ。そもそも論的に、資料を読んで解釈に相違が出る原因は、資料がクソだからだと思って間違いないので、どこで開陳しようが、結果は変わらない(理想論)。

というわけで、会議の資料は事前に回覧することを検討している。大半が読んで来ないと思われるが、そもそも読んで来ない方が悪い。もともと私が会議資料は事前に回覧しておいてほしい人間なので、読んできてもらって、疑問点があればそこで質問してもらうという方法に、違和感はない。そのかわり、資料を作り込む必要がある。いままではその場でちょろっと補足して対応できていたのに、言い訳がきかなくなる。事前回覧には、そういう覚悟がいる。スケジュール的には、かなり苦しいので、あまり採用したくはないが。

もしくは、その場で5分程度資料を読む時間をつくり、その後質問があれば受け付ける。こっちの方が、事前回覧よりも楽だ。いっさい朗読はしない(ここでで朗読したらただの馬鹿だ)。……あ、こっちの方が方向性良さそう。あ、あ、面白そうだな。。。もうちょっと考えてみようっと。

グループワークは「そんなに」大切か?

研修におけるグループワークの重要性は否定しません。その上で、思うことがあります。

何か重要なことを学んだとしましょう。どのようなことも、使えなければ意味がない。だから、グループワークで意識的に活用し、実感する。そしてそこから得られたことを、新たな学びにする。

私が本を読むときにいちばん大事にしているのは「抽象化」であり、また具体的な事例をこまかく分解する作業です。この作業には、異様に時間がかかります。時間がかかるが、絶対的に必要な手順なのです。例えば、研修で新しいことを何か学んだとしましょう。よくあるのが、リーダーシップとか、意思決定とか、組織マネージメントとか、仕事に関するもの。意思決定には、これが大事です、では、これを意識してグループワークをしてみましょう、という流れになるでしょう。

ここで私が思うのは、「この事例には、きれいに適用できる。でも、日常にころがっている問題に対して、いつ、どうやって、どのように、何を対象に適用したらいいの?もっといえば、適用できるパターンと出来ないパターンの区別はどうやってやるの?そもそも全部に適用できるってこと?やっちゃまずいパターンはないの?出てきた答えの妥当性はどうなの?」とか、まあ、そういうことだったりするわけです。ようするに、「僕らが知りたいのは、僕らは社会の中でどうやって生きていったらいいのか、とか、そういうことだったりするんです」、ってわけですね。

そういうわけで、グループワークもまた、しょせん答えのわかっている従来型の学習方法に過ぎないんだなぁ、とか思ってしまうわけです。だから、グループワークはもちろん大切であるにせよ、それほどウェイト置くべきものなのだろうかと、疑問です。

それよりも、これはまあ好みの問題ですが、私は実事例の分解や分析の方が好きです。それは本で勉強できるだろう、と云われそうですが、少なくとも一回効いてグループワークをするだけで抽象化の出来ない私にとっては、そっちの方が絶対的に向いていると思います。

たぶん、他にもそういうひと、いるんじゃないかなあ。