努力の罠

www.lifehacker.jp

新人に何かを教えていると、すぐにわかりませんと反応が返ってくるケースがある。すぐに「わかりません」と反応が返ってくるのは頭を使っていない証拠なので、ずっとえんえん考えさせる訓練が必要となるパターンだ。そのままだと、非常に優秀だけど教えられないと理解できない、ちょっと残念なひとになってしまう。

逆に、リソースもないのにえんえんと努力し続けるパターンもある。内向的なひとに多いように観察されるが、努力すること自体が好きなパターン、えんえん考えている時間が至福だと云うパターン、またじつは何も考えていないパターンもある。考えている自分が好きなパターンもあり、いろいろなケースが観察されるが、このカテゴリに属する一部の人は、「努力している自分を認めてほしい」罠に陥るケースがある。この陥穽にドはまりすると、けっこう悲惨だ。

これは教育の間違いだと、私はかなり本気で思っている。小学校の間はそれでかまわないと思うが、受験がある中学校からは、「世の中結果がすべて」だということをちゃんと教えた方がよい。さすがに「過程なんかクソくらえだ」とまでは教えなくてもいいが、実際は「過程なんかクソくらえ」なんだから、高校生になったら、「結果がすべてで、過程なんかクソだ」と教えた方がよい。努力しても報われないケースは多いが、報われる人はすべからく努力していると教えたほうがいい。「あなたはやれば出来る子」と教えるのは間違っている。「出来る」という概念の定義が不明確だが、この社会では(誰かと比べて)「出来る」というのが真実であり、走る速度が遅いひとは、いくらやっても「誰かと比べて」遅いままだ。相手も本気で走っているのだから、ほとんどのケースで、努力は才能をひっくり返すことはない。

学生のときに努力が才能を凌駕するケースは、まさにウサギとカメのエピソードそのものと云える。

身もふたもないが、ではどうしたらいいのかを考えることが必要だ。自分が「才能がない」のであれば、どうすればいいのか、考えることこそが必要なのである。もしくは、考えさせることが必要だ。大人には、未成年を導く義務がある。

そう考えると、レールに載っていない教育なんか、怖くて出来やしないと感じるのは、私だけだろうか。