教えるということについて

以前からちょくちょく書いている通り、私自身「教える」という行為に対していくぶん否定的な意見を持っています。そもそも動機がどうであれ、勉強したいひとだけが勉強したらいいのです。そのためのツールを、勉強の仕方を私たちは小学生、中学生のときに教わってきたのではないですか?とうぜん勉強したいので教えて欲しいというのであれば、手助けはします。だからそのときは、質問に応える、という形が理想的なのではないかと思いますね。誰かが誰かに強制的に、「これはこうするものです」と「教える」ということは、あまりよいことではないと感じています。

そもそも日本の教育ってそういう形で成り立ってきたんですよね。でもそれはたぶん、「知識のある」人が「知識のない」人に対して、「時間をかけなければ知り得ない知識の伝達」という形で実践されてきたんです。知識のある人は、それだけで敬われた。それは当然のことです。いまでもそうです。そういった先人の知識や経験に対しては、それ相応の敬意が払われるべきです。しかし、それがいま、大きな障害になっている。教育の形は「単純な知識の伝達」から大きく変化しようとしていると思います。

それはたぶん、「インターネットの登場」によるところが大きい。誰もが簡単に知識を検索することが出来る、「擬似的な知識の宝庫」があまりにも身近に出現してしまったことの大きな弊害のひとつでしょう。私自身、必要なことは本から学んだクチですが、本による知識の伝達が爆発的な効率的になったものがインターネットです。困ったことに、わからなければインターネットで調べればいいんです。単純な知識なんて、いくらでもインターネットからこぼれてきます。正しい知識かどうかを判断する必要性はありますが、それもいずれ解決される些細な問題です(Wikipediaがいい例でしょう)。従って、単純な知識だけなら、もう教師から学ぶべきことは何ひとつないのです。

学校の教育現場にITを持ち込めば、子供はすぐに、「端末から」知識を学ぶことになるでしょう。これにはどうやっても人間はかないません。ITを教育現場に持ち込むことで、教師にはいままでとは明確に違う役割を求められることになります。もはや知識の伝導師としての教師の役割は死んでしまったんです。そのことに気がついていないのが、いまの教育現場なのではありませんか?

もっと云ってしまえば、そのことに気がついていなかったのが教育界という世界の上の方にいるひとたちだったんでしょう。そういうひとたちは、おおむねそうやって育てられた人だからです。つまり、これも文化の問題なのですね。学級崩壊は決して「教育現場の問題」ではありません。おそらくは教育界における文化の問題なのです。これを解決するためには、たぶんかなり大きな価値転換と優秀な人材が必要になるでしょう。おそらく学級崩壊は、教師の知識の伝道師としての能力が欠けているがために起きているのではないのですから。そしてもう子供たちは、知識の伝道師を求めてはいないのです。

こういった文化の問題は根が深く、偏見や思い込みという形でいろんなところに根が突き刺さっています。難しい問題です。