幻影師アイゼンハイムを見たよ

なんだか最近、雑記ばかりで映画批評サイトみたいになってきたぞ(苦笑)。

TSUTAYAで見つけて衝動買い……じゃないな、衝動借りした一本。19世紀のウィーンという舞台設定にやられました。主人公のアイゼンハイムも魅力的で非常に面白かったのですが、どっちかというと問題点の方が目についてしまって、私はちょっと興を削がれてしまった残念な映画です。満足度50%ってところでしょうか。題材が好きなだけに、ほんとに残念。

でも映像はとても美しく、見事に19世紀のウィーンを再現していると思います。先にも書きましたがアイゼンハイムがとても魅力的で、沈黙で演技の出来る人ですね。このアイゼンハイムがいなければ、もっとしょーもない映画になった気がします。皇太子もいい雰囲気を出していて、自分がいちばんでなければ気が済まない、傲慢で冷酷なキャラクタを十二分に表現しています。ウィーンの映像美と相まって、雰囲気は抜群です。

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ところが、これ、どこに焦点を合わせてみていいのかよくわからない映画なんですね。最初は明らかにラブロマンスでした。身分違いに引き裂かれる二人、突然の再会、そして悲劇。典型的なパターンですが、よく雰囲気は出ており、しらけるほどつまらなくはありません。ところが話が進んでいくうちに、どこかおかしな感じがしてきます。主人公はillusionist、マジシャン、奇術師、手品師、なんでもいいわけですが、ようするにタネがある手品を披露して興行している手品師なんですよね。つまり、やっていることにはすべてタネがある。これはお約束です。手品師に魔法は使えない。ところが、このアイゼンハイムの披露する手品は、どう考えても19世紀のウィーンでは実現することの出来ないものばかりで、観客の目から云わせてもらえれば、「現実とファンタジーのどちらに焦点を合わせてみたらいいのかわからない」のです。現実かも?ファンタジーかも?って考えながら見ることになるので、どっちつかずでのめり込むことが出来ません。手品師である以上、すべての手品にはタネがある、これは「現実」の見方です。トリックの種について、考える価値がある。一方、19世紀のウィーンではどう考えても実現不可能なトリックの数々は、明らかにファンタジーです。ファンタジーならトリックについて考える意味はなく、すべてが「魔法」で片付いてしまいます。現実か、ファンタジーか。これは観客の鑑賞の仕方にも関わる、かなり大きな問題なのです。ファンタジーとして見せたいなら最初からもっとぶっとんだ奇術をアイゼンハイムにやらせておくべきでしたし、すべてに種があるのにそれを押し隠してあたかも魔術師のように振る舞い、まさしくすべてを煙に巻く「幻影師」として皇太子への復讐という不可能ごとを実行してみせる「現実」物語として見せたいなら、あまりにもぶっとんだ奇術は控えるべきだったのではないかと思います。

ところがこの映画はどっちつかずのまま進行し――とうとう最後の十分間で驚愕の真相が!ってなもんですが、驚愕も何も、最後まで「現実」としての視点を貫いていればソフィーは生きているという結論しかありえないので驚愕でもなんでもなく(声の採取が生きていないとできない)、「ファンタジー」としての視点を貫いていれば、気持ちよく見ていた甘いラブロマンス映画が一転してミステリに変貌するという、別の意味で驚愕を味あわされるとんでもない映画だったりするのでした。味付けの仕方を間違えたとしか思えません。

個人的には、すべてにタネがありながら魔法使いのように振る舞い、すべてを煙に巻きながら不可能を可能にする舞台の王の姿が見たかったです。ちょっと残念。