置き換えと権利

選挙の際に「政治家としての能力」を見定めるとしたら、何を見るだろうか。

当たり前のことだが、政治家としての能力を見るためには、政治家として働かせてみるしかない。そうすることでしか、政治家としての能力を見定めることは出来ない。しかも短期間では、推し量ることは難しい。それでも判断せざるを得ないから、「置き換え」が起きる。

この置き換えは非常に厄介だ。あるときは、それが弁舌のさわやかさであったり、ルックスの良さであったり、知名度であったり、親族の地域での影響力であったりするわけだが、冷静になってみると、政治家としての能力とはあまり強い関係性がない。弁舌が不味いひとは政治家にはなれないし、知名度の低いもの、どのようなものであれ影響力の低いものは政治家にはなれないが、それらの素質を備えていたとして、しかし政治家として成功できるわけではない。何を持って、政治家として成功した、と定義しているのかも不明だ。だから、もっと違うわかりやすい要素で置き換えが起こっている。

未成年に選挙権を、という話しは、そういう意味で、あまり好ましい展開ではないと感じる。そもそも、大人がちゃんと自分の意志で選挙権を行使しているのだろうか?権利を行使するとき、私はいつもそこを考える。この決定は、果たして自分の意志によって行われているだろうか?

残念ながら、私自身は、あまり自信を持ってそうだと断言できない。