コロナは見えていなかった断絶を意識させ、より深めた

椅子を作るために、椅子の本体を作る職人と、椅子の足を作る職人がいるとしよう。

凄まじい精度の「椅子の足」(なんだそりゃ)を作る職人を雇えたとして、世界一の椅子を作ることができるだろうか。世界一の椅子だとわかりにくいが、たとえば、世界一「水平な椅子」(なんじゃそりゃ)を作れるだろうか。おそらくどちらも無理だろう。椅子は椅子の足だけでは水平を保てない。

いままでの日本は、担当分野を細かく分業し、パーツを組み上げて新しい製品を作ることを得意分野としてきた。いまだ「日本は技術力の国」と公言し、それに縋って生きていこうとする向きもあるようだが、それだけではまず不可能である。なぜなら、「凄まじい精度のネジ」が作れたとしても、それを求める製品がなければ、意味がないからだ。そして凄まじい精度の高いネジと、ほどほどの精度の安いネジがあれば、ほどほどの安いネジのほうが競争力がある。耐久力でも同じである。100年耐久できるパーツがあったとしても、あまり大きな訴求効果は見込めない。100年経つ前に、他の部分が壊れるからだ。自明である。

日本は、パーツから製品を組み上げる組み上げ産業には長けていたことは間違いないのだが、どうも、そこから新しいものを生み出すことについては後塵を拝しているようだ、というのが一般的な見方だろう。分業し、職人的でありすぎたために、時代の変化についていけていない。こまったことに、分業したものをまとめて新しいものを形作れるリーダが存在しない、ということだろう。

この分業は、断絶を作った。となりの部署が何をやっているかわからない、という会社は多いだろう。このデータ、月末になった隣のA部署に投げるんだけど、何に使ってるかは知らないよ、もう10年くらい続けているから、けっこう重要な分析に使ってるんだと思う、、、蓋を開けてみたら、10年間共有フォルダに蓄積されていただけだった、なんてことはザラにある。ほかにも、今年度に入ってから、なんか微妙に数字がずれるな、気持ち悪いなあ、と思って確認してみると、いやー、ちょっと集計方法変えたんだけど、ごめん、このデータそっちで使ってたんだね、知らなかったよ、とか。ひどいものになると、マニュアルだけ渡されたパートのひとが、なんかよくわからないExcelマクロを叩いて、統計資料を作成していたりする。数字の意味を確認してみると、資料を出している部署なのに誰にも意味を説明できなかったりする。

部署間、仕事間を横断し、とりまとめるリーダがいないことは、それほど嘆くべきことではないとは思う。ある意味、ミドルマネージャ以上の仕事なので、弱点がわかれば対処が可能である。問題は、「椅子の足職人の断絶」をおかしいと思わない個々人の意識のありようだ。これはめぐりめぐって、違う立場の人のありようを理解できない、議論できない、しようとも思わない、というあり方に結びついている。

そもそも立場が異なる部署間のコラボレーションは難しい。
何か大きいことを成し遂げたいなら、リーダだけが強い組織でも生き残れない。

お金と時間と

最近、システムがらみの打ち合わせが増えた。

いわゆる「IT」のことがよくわからないひとを相手に、システムの打ち合わせをするのは骨が折れる。とくに業界特有の「常識」がやっかいだ。これはできて当たり前、という思い込みが、ヒアリングの漏れにつながることが多い。ユーザにとっては、いつもやっていることは、どれだけ特殊なことであったとしても、「いつもやっていること」に過ぎない。したがって、できて当たり前のことなので、大事なことだとは気づかない。

対応に困るのがカスタマイズ要望だ。だいたい希望を聞いていくと、パッケージに合わない部分が出てくる。そこをどうするのかは、かなり悩ましい話で、要件次第ではあるが、取捨選別は必ずしなければならない。曖昧な判断は許されず、なんかしらの根拠をもって対応しないといけないものだ。

課題の切り口のひとつに、「コストパフォーマンス」がある。
コスパを評価するときに大切なのが、課題が発生する「頻度」と、処理に要する「所要時間」である。したがって、ヒアリングの時には漏らさずこれを聞くことになる。カスタマイズの要望はたいていコスパに見合わず、個別に対応すると割りに合わないことが多い。そのため、どこかで切り捨てることになる。

よく云うのが、「システムって、たいていのことはできるんですよ。お金と時間が十分あれば」である。さいきんこれに、「愛と勇気」を加えることが増えた。たいていウケるのだが、冗談を云っているつもりはまったくない。

「システムってたいていのことはできちゃうんですよ。お金と時間が十分あれば。あとは、愛と勇気ですね」

お金と時間が十分あっても、残念ながら、愛と勇気がなくて頓挫するケースもある。むしろ、愛と勇気はお金よりも大事かもしれない。そのことを理解してもらうのは、かなり難しい。

コロナの検査の話をしよう

不可抗力の国難などどこにもない。ただ、自分たちで不安になって、自分たちで自爆しているだけだ。

headlines.yahoo.co.jp

またこの手の記事が湧いてきたか、と思うと、なにやら暗鬱たる気分になる。気持ちが沈み、ため息の一つでもつきたくなるというものだ。これだけ医学的な観点から検査の現状について解説している記事が出ているのに、まだこんなことを書くジャーナリストが存在するのか、と思うと、割と絶望的な気分に陥るし、また10年後も、別の誰かが同じことを繰り返すのだろうと想像せざるを得ない。現状を省みてよりよい状態を模索していくのは必要不可欠なことだが、その意見は妥当性が高くなければ意味がなく、ただの批判は往往にして議論に昇華できずに混乱を招くだけだ。

まだ「保健所の拒否」がまかり通る
 厚生労働省は3月4日、新型コロナウイルスに感染したかどうかを調べるPCR検査に6日から、健康保険を適用する、と発表した。一見すると、従来に比べて、一歩前進のように見える。だが、実はそうでもなさそうだ。
 PCR検査を受けたいのに、受けられない「検査難民」が続出しているのは、ご承知の通りだ。日本医師会は4日、医師が検査を求めたにもかかわらず、保健所の判断で断られたケースが3日時点で7道県医師会で30件に上った、と明らかにした。全国では、はるかに多いはずだ。

 こうした事態が世間の強い批判を受けて、厚労省は遅まきながら、検査の保険適用に踏み切った。そもそも「医師が必要と判断したのに、保健所が拒否する」仕組みがまかり通っているのが、おかしい。
 医師は対面で患者と向き合って診察しているのに、保健所は電話相談にすぎない。それで、どうして医師でもない保健所職員が患者の状態を適切に判断できるのか。常識で分かる話だろう。断られた患者や医師が憤慨するのは、当然だ。

外側から見れば保健所が拒否しているように見えるのは仕方がないが、この記事は「保健所の取材をしているのか」疑問である。保健所は国で議論されて決められた症例定義にしたがってrejectしているだけで、保健所が主体的に拒否しているわけではない(すべての保健所が理解してrejectしているかどうかは怪しいが)。理由はすでに散々他記事で解説されている通りで、全例検査すれば混乱をきたすためである。

  1. 医療資源は無限ではない。検査はあらゆる意味で魔法ではないとご理解ください。すでにいろんな記事が出ていますが。
  2. 検査には感度・特異度があります。陽性だからといってすべてがコロナではないし、陰性だからと云ってコロナではないと断言できません。
    1. 市中に患者が少ない状態で、疑い例に検査を片っ端からやると、理論的には偽陽性が増えます。偽陽性をぜんぶ医療対応したら、現場が崩壊します。
    2. 感染症対応できる部屋をすべて埋めてしまって、仕方なしに一般病棟にいれたら、どうせ非難の対象になるんでしょ?で、重症例が必要な治療を受けられなくなるわけだ。
    3. あのHIVスクリーニング検査であっても、1000人に一人くらい見逃しますし、陰性を陽性と誤判定します。これは技術の限界です。

検査難民ということばは便利だが、必要なのに検査が受けられない状態をさすべきであり、現実、「検査難民」とやらの大半は、ただの検査が必要ない患者にすぎない。繰り返すが、現時点のリソースの問題から疑い例を全て検査すれば、「検査難民」が発生することは間違いないことは容易に推測できる。これでは「ただの自爆」である。

大事なのは、助けられる命を助けることだ。このジャーナリストには納得しがたいのかもしれないが、PCR検査は、一般市民の安心のために検査をしているわけでは決してない。ましてや疫学調査のためなのでは決してないのだ(疫学調査を兼ねていることは云うまでもない)。コロナであろうがなかろうが、ARDSをきたした重症例を放り出すようなことは決してしない。逆に、コロナであろうがなかろうが、軽症例を入院させて呼吸管理をすることなどあり得ない。そんなリソースは病院にはないのだ。野戦病院を想像してもらえれば、医療リソースの問題はイメージできるだろう。

武漢で死亡率が高いのは、医療レベルの問題ではなく、リソースの問題である可能性が高い(武漢は都会である)。医療が重症例に届かず、却って死亡率を高めている。軽症例はほうっておいても回復するのだから、そのような状況下において、軽症例に医療リソースを割く意味はない。そのリソースは、重症例に割り当てられるべきであることは、病院の使命を考えれば、自明である。

繰り返すが、大事なのは、助けられる命を助けることだ。善良な一般人の不安を取り去ることでも、社会要請に応えることでもない。
そのために必要なことはときに冷徹に見えるかもしれないが、それでもこれがいま取れるbetterな方法なのである。


もうひとつ加えて云えば、、、
そりゃーさー、いまの状況で、「これ風邪ですわ、HAHAHA!」とか云って帰宅させた患者がじつはコロナでさ、後日、あの病院にかかって誤診されました!みたいな報道されてみ?怖くてまともな診察なんかできねーだろ。
ふつうの心理として、じゃあ世間様じゃコロナ出てるみたいだし、症状から鑑別つけられないし、たぶん違うと思うんだけど、とりあえずコロナの除外したいからコロナの検査やっとくか、みたいな流れになるだろ、ふつう。
で、それを全例検査したらパンクするの、目に見えてんじゃん。
それを、「医師の判断を拒絶するのか!」なんて云われてもなー。
産科の医療を崩壊させたときのことを思い出せよ、マジで。

検査はすべてをつまびらかにするか

検査してもわからないことがある、なんて単純な話ではない。

心配なのでCTを定期的に撮ってください、という患者がいる。この患者は何を期待しているのだろうか。CTを取れば、いま自分の体の中の様子がすべてわかり、なにも異常が見つからなければとりあえず「安心」できる、とでもいうのだろうか。果たして、それは正しいか?

検査には感度・特異度があり、それぞれの検査には限界がある。そのlimitationは検査の手法的な限界であったり、判断する人間の問題であったり、技術的な課題であったりするわけだが、検査は決して万能ではない。加えて、絶対でもない。あくまでも診断を支える補助的なツールである。だから医師の判断が必要なのだ。検査をやってもやらなくても医師の判断が変わらないのであれば、その検査はやるべきではない。それは医療資源の問題である。

軽症例に対して、果たしてコロナウィルスの検査は必要だろうか。

このいい前例として、ノロウィルス検査がある。私はこれを史上最悪のクソ検査だと公言しているが、上梓された頃のこの検査キットは感度が7割しかなく、真の陽性患者10人を検査した時、7人しか陽性にしかならなかった。陰性でも真の陽性が少なからず混じるため、この陰性結果はまったく信用できないが、この検査が保険適用されたものだから、この結果をもってノロウィルス疑いの感染対策の実施内容を決めようとする医師が続々現れた。云うまでもなく、この結果が陰性だからといって、ノロウィルスが否定されるわけではない。そのため、結局、ノロウィルスを疑う患者に対しては、検査結果に関係なく、ノロウィルスを想定した感染対策を実施することになる。また、陽性になったところで、治療法があるわけでもない。この検査を実施したことによって、ほとんどのケースで、何も変わらない。臨床的なインパクトはほぼ皆無である。強いて云えば、食品関係の業務従事者の業務上の手続きがやりやすくなるくらいだ。

こんな検査、やる意味があるのだろうか?

コロナウィルスの検査が保険収載される様だが、重症例以外のコロナウィルスの検査には臨床的意義に乏しい。こんな検査を乱発すれば、今度は特異度の問題から大混乱をきたすし(どんな検査でも、一定数、偽陽性がでる)、ほんとうに医療崩壊が生じかねない。

検査してもわからないものはわからない。検査は、適切に使って初めて意味があるのだという当たり前のことを、まずは大前提とするべきである。

マスクに意味はあるのか

10年前にも同じ記事を書いた。世間様はまったく変わっておらず、相変わらず微笑ましい。
kisaragi5.hateblo.jp

マスクは拡散させないために着用するものだ。まずここを認識してほしい。マスクをしないとたちどころに感染して死ぬわけではない。マスクをしていたら感染しないわけでもない。したがって、感染者が周辺にほとんどいない状態でマスクをヒステリックに着用する必要はない。だが、感染者が増えてきたらマスクは拡散防止に有効だ。あくまでも拡散の防止に対して有効なのだ。

マスクに感染防止効果があるかどうかについては、昔から議論されてきた。いちおうもっともらしい回答もあって、「適切に扱えば効果があるかもしれない」。誰も科学的に確からしい検証できていないので、これ以上、議論のしようもない。理屈の上では、

  1. マスクの前面を触らない
  2. マスクは適切な頻度で使い捨てにする(適切の定義は不明)
  3. 廃棄するときには、紐をつまんで廃棄し、廃棄後、アルコールで手指を消毒する

など、注意が必要で、適切に扱えば、感染を防御できる可能性がある。

これは、マスクがウィルスを止めている(=感染防御能がある)という前提の、理屈の上での話だ。この仮定に従えば、止められたウィルスはマスクの前面に付着しているため、そこに触れてはならない。触れると、ウィルスが手指に付着し、回り回っていずれは口の中に入るだろう。そこですべてが無駄になる。大半の人はマスクを「適切に」扱えないため、結果的にマスクは飛沫感染のウィルス感染を防げないことが多い。少なくとも、電車で吊革をにぎったその手でガムを取り出して食べているひとには、(結果的に)マスクは効果がない。

マスクをしていたら安心なわけではない。その結果、感染が防御できるかどうかが大事なのだ。マスクは目的ではなく、ただの道具であることを認識してほしい。

2019-nCoVは飛沫感染だと云われている。エアロゾル感染という表記をみたが、云っていることは飛沫感染なので、すべて置き換えて構わない。エアロゾル感染が空気感染だという話も目にしたが、まったく異なるし、この文脈は間違いだ。デマだと云ってもいいし、これを拡散したまとめサイトの行為は、世間に不安を拡散したという観点から、「マスコミュニケーション・テロ」だと云ってもいい。基本再生産数をみても、現状インフルよりやや高い程度なので、おそらく飛沫感染であたりだろう。空気感染だとR0が10超えてくるので、統計的にも飛沫感染だという判断は妥当性が高い。そうであるなら、対策はインフルエンザに準じて対応する。ウィルスが変異して空気感染するかもしれない可能性が心配なら、もちろん一般人がN95マスクをしても構わない。理解した上で選択するなら、それは自由だ。だが、パニックになっているだけなら、まずはいちど深呼吸して、明日も生きている自分を強くイメージすることをオススメする。

手をしっかり洗う、首から上を触らない、これがもっとも有効性の高い自衛策である。ここから派生して、手づかみでものを食べないことを意識する。エレベータのボタンを利き手で触らない。スマホを触った手は汚いと意識する。無機物に付着した2019-nCoVがどの程度活性を保つかは知らないのでなんとも云えないが、知見が得られるまでは、インフルエンザ相当には活性を保つと考えておくべきだろう。つまり、一般人がやることは、インフル対策となんら変わるところはない。

死亡率が高い、という話もあったが、すでに散々解説されている通り、ただの数字のマジックから生じた誤謬である。疫学の実態は、ほぼインフルと変わらない。基礎疾患をもつ患者が死にやすいのも、インフルエンザと変わらない。

マスクが売り切れて、品薄になってしまう理由が本当にわからない。10年前にも同じ状況になった。あのときもヒステリックに不安が拡散された。N95マスクをしている一般人まで出る始末だった。電車にはN95マスクの下にガーゼを挟んでいるひとをみて、(本当に)絶望的な気分になった。

また10年後も、同じように、似たようなシチュエーションで、似たように騒いでいるのだろうか。

高齢者の車の免許について

そもそも論的に、車の運転は全国民等しく禁じられており、一定の技能を有すると認められたものだけが、運転行為を認められている、というのが大前提。
つまり、免許更新時に技能試験を課したらよろしい。ただし、全員にだ。
高齢者だとか若年者だとか関係なく、
人格的に運転を許可してはまずいひともいるだろうし、
病気で運転できなくなったにも関わらずごまかして運転している人もいるだろう。
技能の衰えは誰にでも起こりえるし、
そもそもペーパドライバなんて意味のわからない単語も死語にしてしまうべきだ。
ペーパドライバの運転と高齢者の運転、孕んでいるリスクに明確な違いがあるのだろうか?

そもそも免許の性質を考えてみれば、更新時に技能試験を課すのは制度的妥当性がある。
教習所は新しい商品(更新試験対策講座、とか)ができてうれしいだろうし、更新に必要な時間は法律的に休日を付与したらよろしい。

臨床検査技師の免許には欠格事由があり、たとえば、目が見えなくなったら(全盲)、免許を剥奪される。
「危険行為を許諾される」とは、そもそもそういうものでは?

定期的にインフラ止めよーぜ

水、電気、ガスは、定期的に不自由になった方がいい。
更に云えば、電車、バスなどの公共交通機関も、定期的に不自由になろう。
テレビは映らなくなってもいいし、ラジオはサボったらいいし、
郵便は届かなくなってもいい。テレビ局はときどき砂嵐を流して
番組制作をサボったらいいんじゃないか。

電車はもっと遅延してもいいし、
バスはいまでもしょっちゅう遅延しているけど、
便そのものが突然なくなるとか、あってもいい。
飛行機は飛ばなくなってもいいし、車はもっと性能が落ちてもいい。
ガソリンスタンドは臨時休業したらいいし、
スーパーは三が日働かなくてもいいだろう。

銀行はときどきお金を引き出せなくなったらいいんじゃないか。
病院はときどき医師が脱走して外来を閉じたらいいし、
帳票システムがダウンして帳票が印刷できなくなったらいいし、
オーダリングシステムがダウンして検査オーダが出せなくなったらいい。

よーするに、ときどきわざとダメになろうぜ、ってこと。
何かがダメになったら致命的なダメージを受けるシステム、制度、生物、その他諸々って、
弱すぎません?