職人は不要か

「職人」が不要になってしまった。AIの台頭を見るにつけて、そう思う。

個人的には認められないが、もはや「一つのスキルを極限まで磨き上げる」必要性がほとんどない。基本的に、反復する動作はすべて(ある程度のレベルで)機械化できてしまうため、作業の一つ一つに対して高いレベルでの習熟が必要なくなってきている。結果、どのようなことが起きているのか。もともとひとつの動作を極限にまで磨き上げることを是としてきた日本人にとって、価値の転換を迫られているのではないかと感じる。

包丁を極限にまで磨き上げる技術も、おそらくRPAで再現できるだろう。日本刀を再現することも、最終的には可能であろう。「職人の感覚」に相当する部分は、膨大なデータさえあれば、ほぼ間違いなく再現できてしまうのだ。データの蓄積は必要だが、特定の分野に限れば、AIは人間をはるかに凌駕する能力を持っている。

医療の世界においても、同じことが起きるだろう。「診断」は、AIの仕事になる可能性がある。画像を含む膨大な検査データを読み、診断候補を挙げることは、いまでも技術的に可能であろう。身体所見は難しいかもしれない。AIに体性感覚がないからだ。もしかすればだが、AIに痛みや喜怒哀楽などを覚えこませることができれば、身体所見も取れるようになるかもしれない。AIに人格が芽生えるかどうかについてはなんとも云えないが、少なくとも体性感覚抜きでは喜怒哀楽を理解することはできず、したがって人格が芽生えることもないだろうと想像する。

AIによる医療は、医師の物理的な負担を軽減するだろう。検査結果の読み落としはなくなるだろうし、微妙な検査結果の変化から、今後生じうる疾患を推測することも技術的には可能なはずだ。したがって、医師に求められるのは、治療方針の提案と決断である。昨今、重々に説明を重ねて患者に治療方針を選択させることが多いが、提案まではAIがやってくれる可能性が高く、方針の決定も患者の仕事になるなら、医療は自動化できるかもしれない。医師の仕事は研究のみになるかもしれない。

検査技師はどうだろうか。検査技師はまさに職人気質のコメディカルだが、仕事が無くなる可能性を否定できない。少なくとも、生化学的分野はそうそうにAI化できてしまう。QC結果を測定器に連動させてメンテナンスを自動化するなんて、なんの問題もないはずだ。

AIの台頭は職を奪う。それは間違いないと思う。ただ、それは時代の変化であり、いままでは「職人」が必要な時代だった、というだけである。いまは、「変化」を起こせるもの、対応できるもの、つまり、AIでは対応できない価値を生み出せるものが必要とされているだけである。