部分点に対して思うこと

頑張ったことを評価してほしいという気持ちはわかる。しかし、いまこれを呼んでいるあなたがもし学生だったなら、その気持ちはこれからなるべく感じないように、自分を矯正した方がよい。

頑張ったことを評価されるのは大学入試くらいまでで、私はあの「部分点」という評価がまるで理解できない。教育上、(ある部分では)害悪だと思う。「ここまでは正しい」って、いったいどういうことだろう?生きていく上で何かを試して、「ここまでは正しい」って誰が評価してくれるの?結果が出るところまでやりきって、はじめて「結果的に正しかった」ことが「なんとなく」「感じられる」だけじゃないのか?

仕事をする上で、部下と上司の間に似たような関係性は生じるけれども、最終的には結果がすべてだ。結果を出せなければ、評価されることはない。「業績は落ちましたが、連日残業して頑張りました!」とか云ったら、即どつかれることは想像に難くない。


ここまではどうでもいい話しだが、じつはこっちの方が話しとしては重要である。つまり、「褒められなければ、やる気が起きない」という思考ルーチンが形成されている可能性があるので、それはすぐに矯正した方がよい、ということだ。まあ齢20を超えてベースの部分は矯正しようがないけれども、褒めて育てられたひとの一部に(潜在的にはもっと多くに)、このようなひとがいる。おそらく、ひとはまったく評価されることなく苦行を続けることは出来ないが、褒められることを原動力にこれまで受験戦争やその他もろもろの学生生活を乗り切ってきたひとは、すぐにその呪縛を断ち切る努力をすべきである。まずはその呪縛を「呪縛だ」と認識することから始めなければならない。

まあ、褒められないと仕事ができないって、「どうしようもない」んだもん。