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温かい言葉も綺麗な心も、目の前には存在しない

相模原の事件のニュースを見ているときに、「障害者とか本当の精神疾患患者の心って、本当に綺麗だから」という趣旨の意見を聞いた。
個人的には、部分的に賛同しかねる。


たとえば、「温かい言葉」は実在するだろうか。

するかもしれないが、「温かい」と感じるのはことばを受け取ったひとである。だから、「温かい言葉」を発したつもりでも、受け取られ方が異なれば、「冷たい言葉」に誤解されるかもしれない。「綺麗な心」も同様だろう。指標としての「綺麗である」とはどう定義されるのか不明瞭だが、たとえば目の前のひとの心が綺麗である、純真である、無垢であると感じるのは、その心の持ち主ではない。第三者が勝手に、「純真」「無垢」「綺麗」ということばを使って表現しているだけだ。そう思うのは勝手だが、それは誤解かもしれない。別に障害者の心は綺麗ではない、などと云いたいわけではない。そのような形容が無意味である、と思うだけである。

温かい言葉も、綺麗な心も、そう感じるひとの中にしかない。だから、言葉に直して、「あの人は純真だから」とか、「障害者の心はほんとうに綺麗だから」などという意見には、とても強い違和感を感じる。決して間違っているわけではない。しかしその意見は、そう云いたいひとが、自分勝手に障害者のことを理解したふりをして、上っ面だけ「綺麗な」ことを云っているだけではないのか、と、とてももやもやした気分になるのである。