経験に学ぶより歴史に学べ、だったっけ?

残念ながら、「見たものがすべて」現象から逃れられるひとはあまり多くない。事前に断っておくと、私もそうである。

たとえば、「金縛り」だ。私もじつは金縛りにあったことがある。ぴくりとも体が動かないのに、そのとき意識ははっきりしている、これはかなり怖かった。いまとなっては「意識がハッキリしていた」のか、「意識がハッキリしていると思い込んでいた」のか、判然としないが、どちらにせよ、「主観的に、金縛りにあった」事実は存在する(私の中に、だが)。体が動かない。動物としてはっきりと生命の危機を感じる状況だ。なのに、なぜ自分がこうなったのか、説明できない。かなり理不尽な状況だ。

ひとは、観察された事象に対して自分のなかにストーリーを組み立てる。そのストーリーが納得できるものであれば、そのストーリーは真実となる。ある個人にとって、「金縛り」が霊によるものだと納得できる要素があれば、それは霊によるものと「信じられる」。そのひとにとって、それは「真実」である。

「金縛り」が霊的な現象であるかどうかについて、私はとくに意見を持たない。私が遭遇した金縛りは、死んだじい様ばあ様が枕元に立ったせいかもしれないし、そこらへんの浮遊霊にのしかかられたのかもしれない。ただたんに、疲れていただけかもしれないし、私が知らないだけで何か医学的に説明がつけられるのかもしれない。日本人の9割以上は病院で死んでいると思うが、私は病院で宿直をしていて金縛りにあったことはないので、確率論的に云って、浮遊霊の仕業ではないだろう。しかし、この生命的に危機な状況に対して、原因がわからない、というのは、非常に不安を惹起される状態である。

「見たものがすべて」現象は、おおむね認知的努力を放棄した瞬間に発生する。頭のなかで自動的に連想されたストーリーに対して、十分な批判が出来ず、かつ最終的にそのストーリーが間違っていた場合、それは「誤認」である。しかし、ひとはストーリーを組み立てることで、安心することが出来る。ひとは本能的に継続的な認知的努力を嫌うので、出来る限りの情報を直感で処理しようとする傾向にあるが(この傾向は、たとえば7つのでたらめな数字を記憶しながら連想を必要とするべつの作業を行うことなどで顕著に観察できる)、認知的努力を十分に働かすことできない状況で、見たものがすべて現象は発生しやすい。

睡眠不足で認知的能力は著しく低下することが知られているが、徹夜明けの医師が救急外来でピットフォールに陥りやすくなるのは、このあたりが原因であると云える。つまるところ、時間外の医療を充実させたいのであれば、みなに等しく税金等をかけて、宿直明けに日勤をしなくてもよいように、医師数を増やすことが重要である。そこが大前提であるといえる。