組み体操と日本の縮図

組み体操は、経験がある。

例に漏れず、小学校の体育祭だったか、組体操をやった記憶がある。たしか、3段か4段くらいの、慎ましやかなものだったと思うが、あまりよく覚えていない。出来たときには、わりと「おお、出来た!」という達成感というか、充実感みたいなものがあった。

体育の授業で「出来た!」という達成感を得るための方法として、組体操がとくに優れているわけではない。だが、組体操がもっともシンプルで、もっとも手頃だろうとは思う。ひねりがないといってしまえばそれまでかもしれないが、個人的には、組体操自体にそれほど否定的ではない。リスクヘッジできないのであればやめるべきだとは思うが、まあ、組体操でなければならない必然性はどこにもない。私が感じた充実感は、組体操以外でも得られただろう。もしかしたらそれは一輪車に乗れるようになったことで得られたかもしれないし、100mを14秒で走れるようになることで得られたかもしれない。それは夏の甲子園でも同じだし、世の中の大抵のことはそうだ。

つまり、必然性を感じているのは、ほとんどのケースで「見ている人」なのである。やっている人が重要なのではない。甲子園は明らかに違うじゃねーか、という疑問は出てきそうだが、甲子園はただのシンボルなのであって、必然性があるわけではない。個人的には、勝ち負けがはっきりするシビアな世界で鎬を削る高校球児たちが、「今年からは甲子園ではなく◯◯でやるよ、これから夏の高校野球の聖地は◯◯だ!」と宣言されたとして、それほど抵抗はないのではないかと思う。場所は、勝ち負けに関係がないし、甲子園は高校野球の頂点を決める場所、というシンボルだから、シンボルがすげ変わるだけだ。まあ、甲子園に云ったことも目指したこともないので、的外れなことを云っているかもしれないが・・・

やっぱ甲子園じゃねーとダメだよなー、とか呑気に云っているのは、「見ている人」である。組体操も、やっている人たち以外の人が、あーだこーだと要求する。「だから変えられない」のであれば、すごく日本的だと思うし、やはり社会の縮図だな、と思うわけである。

ちなみに、「やっぱ甲子園じゃねーと・・・」という連中が、私はいちばん嫌いである、というのは、ここだけの秘密だ。