認知容易性の罠

認知容易性は、私たちを日常的にバイアスの罠にはめる、おそるべき性質である。

繰り返し見せられるものは、それが生理的に明らかに受け付けないものでない限り、慣れるに従って親しみを感じるようになる。無条件で、日常的に目にするものは優れており、安全で、友好的であると感じられやすい。すなわち、相対的に命の危険が少ないので、受け入れやすいと感じる。慣れる、と言い換えてもいいが、私たちの精神は、このような「容易に認知できるもの」を、優先して受け入れやすいように出来ている。

この傾向は、コントロールできない。私たちの精神はつねに周囲の状況をモニタリングしており、ほぼ無意識に危険性の評価をしている。理解できないものを排除し、理解できるもの、しやすいものを受け入れる傾向がある。この仕組みは、その判断に、理論的に根拠があるかないかは問題としない。唯一問題になるのは、理解しやすいかどうか、つまり、判断するものにとって、整合性のとれたストーリーが構築できるかどうかで決まる。つまるところ、理解しやすいかどうかで、ある事象が受け入れられるかどうかが決まる。

だから、幽霊が存在する派としない派は理解し合うことが出来ないし、超能力が存在する派としない派は理解し合うことができない。ひとは信じたいことしか信じないし、たとえ明らかな根拠があっても、信じない理由を捏造して信じないことが出来る。そして、整合性はとれているので、違和感は生じない。

もちろん、この傾向を批判し、是正するための精神的な活動も存在する。だから私たちは直感的なエラーを犯す前に、「ちょっと待てよ」と踏みとどまることが出来る。この「ちょっと待てよ」という活動が鈍くなっているひと、めんどくさくてサボっているひとが、認知容易性の罠にかかりやすい。批判的な「ちょっと待てよ」システムは、疲労や睡眠不足に非常に弱いので、ひとは疲れていると直感的なエラーを犯しやすくなる。夜勤明けの医師が誤診しやすくなるのは、このメカニズムによる。

さて、子供にワクチンをさせずに病院に連れて行き、我が子にわざと麻疹を罹患させて「自然免疫がついた」と喜んでいる馬鹿のブログを読んだ。ワクチン推進派と反対派の攻防も、決してわかり合えることのない、永遠の戦いである。もちろん科学的には、ワクチンは効果があることが明確である(つまり、感染症を予防する効果があることについて、明らかに再現性がある)。我が子に自然免疫をつけさせることが目的であれば、どうぞ病院でもどこででも云って自然免疫を獲得すればよいが、麻疹の重篤な後遺症には「亜急性硬化性全脳炎」があることをご存知なのだろうか。疾患を予防するためにワクチンを接種するのだから、完全に手段と目的が入れ替わっているのだが、まあ、気にならないんだろうな、と思う。(麻疹の死亡率は決して低くはない)

滅多なことでは馬鹿だなあとは思わないものだが、さすがにこのケースは馬鹿だなあと思った。世の中には、こんな重篤な馬鹿もいるのだな、と思った。認知容易性の罠の恐ろしいところは、周囲にこのようなひとがいて親しくしていれば、そのおかしな理屈を「おかしい」と感じられなくなってくるところにある。あのひとが云っていることだから、という理屈だ。

そんなひとがいることで私は被る実害はほとんどないのだが(集団免疫が破綻するという困ったことにはなる)、読んでいてうんざりさせられる記事だった。より、本能的に生きているのだな、と思う。問題は、おそらくその子供も影響を受けて、そうなるんだろうなあ、ということで、反面教師にして育ってくれることを祈るばかりである(余計なお世話か)。