意味のない正義

正義を信じる人たちがいちばん恐ろしいと思った今日この頃。

盗作作家を批判する作家のブログを拝見したのですが、なんというか、被害者に謝罪させたい(らしい)という理念は理解できるのですが、よくモチベーションが続くなあと妙に感心してしまいました。この盗作作家さん……ああ、これはちょっと具合が悪いな、盗作作家だと云われているKさんということにしておこう(笑)、まあ、とにかくこのKさん、じつは私も大嫌いで(苦笑)、私の好きな作家を批判しているという感情的な理由もあるんですが、およそ文筆家とは思えぬ薄っぺらい文章を書いて人を批判するんですね。べつに重厚な文章を書いて批判したって嫌いなものは嫌いなんですが(苦笑)、批判が的外れで薄っぺらけりゃ薄っぺらいほど、怒りも大きくなるわけで。

というわけで、私も嫌いっちゃ嫌いなんですが、しかしそのKさんをウォッチし続ける根性と云うか、モチベーションというのはいったいどこから出てくるのだろうと、猿のような疑問が沸いてくるわけです。いや、常識的に考えてすごいですよ、ほんと。ほとんど数日とあけずKさんの話題を書き、それをどうやらもう一年くらい続けているみたいなんです。うーん、すごい。よく飽きないなあ。正義感や倫理観にかられてのことだと推察しますが、それだけでよく一年も続くものです。いや、これ、感心しているんですよ、ほんと。

きっと義務感もあるんでしょうけど、それだけじゃないですよね、きっと。人間、義務感だけでモチベーションを保つのは難しいと思う。いやいやいや、そういう清廉潔白の士がいてもいいんですけど、たぶんいま世の中に生きている聖人がいないのと同じように、きっとレアものだと推察します。従って、きっと義務感だけではないでしょう。正義感や倫理観にかられて糾弾しているのかもしれませんし、ひとこと被害者に対して謝らせたいだけなのかもしれませんが、つまりこのひとはKさんを(一年近くも!)批判し続けることで、「正義を行使している」と見なしてもいいのかもしれません。もちろんこの場合、「正義」の定義は曖昧ですが。

つまり、正しい行いをしている、正しい行いに理由など必要ないのだという考え方も出来るでしょう。人間には正しい行いをする義務、もしくは正しい行いを支援する義務、または権利、もしくは正しい行いを認める行為そのものが要求されている、と見なしてもいいかもしれませんね。正しいことをするのに、どこにためらう必要があるだろうか……もしかしたら、Kさんを批判するこの行為は、悪を糾弾する行為であり、おそらく正義に基づいて実行されているのかもしれないと私は推測しました。なるほど、つまりこのモチベーションを支えているのは、正義を愛する心だったのか!

というわけで、そうやってKさんを批判する行為に理由なんかないのかもしれません。理由がないのにモチベーションを保ち続けられる理由は不明です。そうやって考えると、「ああ、そうか、きっと好きなんだなー。好きこそものの上手なれ、って云うしなー」と突然何の前触れもなく思って、それ以上考えるのをやめました。あはは。


と、論理的に文意を歪曲させる訓練をしてみました。実際にはちっとも歪曲していないし、歪曲させるだけの文章力もないし、そもそも無意味なエントリだし、現実とは何も関係のないフィクションだし、うん、だからここに書いたことを深読みしてはいけませんよー。けっしてKさんが誰で、Fさんが誰とか、考えないように。ん?Fさん?