評価基準について

英語の出来ない日本人、という評価について。私は指導要領という概念自体が嫌いだが……

私自身振り返ってみると、英語の授業ほど嫌いなものはなかったと思う。特にオーラルの時間が嫌いだった。文法も嫌いだったし、従ってしゃべれるはずもなく、英語の評価にも響かないとなればやる気も起きなかった。オーラルはテストの評価には入っていなかったからだ。そして自慢にも何にもならないが、実は私はテストのときに教科書をほとんど暗記していたのである。だから教科書の穴抜き問題、つまり「適切な単語を入れろ」というタイプの問題にはめっぽう強かった。答えを知っているのだから当然だ。テストでいい点を取ろうと思えば、ただ教科書を丸暗記してしまえばよかった。さらに自慢にならないことに私は生粋の画像記憶型人間であり、教科書程度の情報量だと、15分も見つめて頭の中で関連づけてやれば完全に記憶できたのだ。こうなると、根本から「学ぶ」という姿勢は消えてしまう。暗記してしまえばより短期間で高い評価を得られるのだ。これを実践しない手はなかったのである。英語嫌いだったし。

だから日本人が英語を話せないのは当然であって、そういう風になるように評価尺度が定められているから当たり前の話なのである。人はほめられるように行動するものだ、という当たり前のことに気が付いていないのか、それとも分かってやっているのか……英語の授業を英語でやったところで、劇的な効果はないだろうと想像します。評価尺度を変えてやらないと、生徒は暗記型の学習方法をやめることはないでしょう。何度も云いますが、それがほめられるための近道だからです。

ところが数学や物理などの分野ですら暗記型のテストが行われているわけで、これはテストを作る側の問題でしょう。馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいんですが、公式なんて暗記している必要はないんですよね。道具を使って出来ることのほうがはるかに重要なわけで、だからたぶんテストも論述形式にして論理を評価しないといけない。それでオールオッケイというわけではないですが、もともと紙で評価できることは限られていますから、やはり高校で卒業研究をするべきかと思いますねえ。大学は研究ばかりをしていればよろしい。

橋下知事は嫌いではありませんが、学力テストの結果をあまり重視するのはよろしくないと思います。それよりも新しい評価尺度を考えたほうがよいのでは?