スカイクロラを見たよ2

というわけで、二回目を見てきたよw

同じ映画を映画館で二回見たのは久しぶりです。別の用事があったので、ちょっくら見てきました。先週と同じく、とんでもない量の人、人、人!よくもまあ、これだけのひとがいるものだと感心してしまうほど、映画館がぎゅうぎゅうになっていました。

で、ちょっとした興味のひとつに、「先週はほとんど満員近かったけど、今週はどうかな?」というのがあって、きょうはチケットを先に購入しておいて、用事を先に済ませてから映画鑑賞というコースでいきました。それもこれも、先週はほとんど満員状態で、あやうく席がとれないかもしれないというぎりぎりの瀬戸際だったからです。今回は席を確保しておいたので余裕だったのですが、いざ時間になってみると、人が多いのなんの。ハコもほとんどいっぱいになって、空席は前しかない、という状態でした。まあこのくらいは埋まらないと、もうけにならんか。実家の近くの映画館なんて、話題作でもハコの半分くらいしか埋まっているとこ見たことないのにね。

というわけで、スカイクロラ二回目を堪能。

この作品には、一回見ただけだと「どこを斬られたのかよくわからない」鋭さがあります。何が云いたいのかよくわからない、という感想があるようですが、そうですね、私にもよくわかりません(笑)。ただ、どこかを「斬られた」感触だけが残る。この違和感をまるごと飲み込めるかどうかで、この映画の楽しみ方が変わるような気がします。

えーっと、「ショーとしての戦争」の意味が分からずに、「そんな状態はあり得ない」というひとは、はじめから見ない方がいいでしょう(苦笑)。なんで「子供なのに、タバコ吸ったり、女買いにいったりするの?」というひとも同様。

これはたしか、原作の方に書いてあったのかな……私が思うのは、「キルドレが不老である、という証明を誰がしたの?」ということ。草薙水素は、たしかにキルドレ「かもしれない」。草薙瑞希はたしかに、草薙水素の娘「かもしれない」。そして、キルドレはたしかに、戦死しないかぎり死なない人間「かもしれない」。映画では事実のような描かれ方をしていますが、誰も確かめていないことです。三ツ矢は劇中で、「自分はキルドレじゃない」と主張します。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。原作のスカイクロラは、ものすごく抽象的な世界でした。なにひとつ確かなことがない。キルドレという概念ですら、本当のことなのかどうかわからないのです。キルドレたちは、自分たちが何者なのかを知らない。あえて云ってしまえば、戦闘機に乗って戦争をすること、それだけがキルドレたちが信じられる現実であり、確かなことだったわけです。

繰り返される現実と、昨日、今日、明日。そのすべてが等価だと感じている存在、キルドレ。過去の記憶が茫漠としている彼らの唯一といってもいい現実が、闘っているその一瞬だけなのだとしたら。明日死ぬかもしれないのに、大人になる必要があるのか、という問いに、誰も応えられないのです。実は彼らには「現在」しかない。過去と現在と未来が等価で、だから彼らには現在しかない。その刹那にしか生きることが出来ない存在。だから彼らは「大人にならない」。いつ死ぬかも分からない現実でしか、生きることが出来ないから。

そのあたりのことを考えて、二回目を見ていました。このストーリィにはいろいろな解釈を加えることが出来ると思いますが、キルドレであることの意味が、この映画の持つ切れ味の秘密かなと勝手に思ったりしています。

まー、アレだ、スカイクロラが「大人の用意したレールの上を走らざるを得ない子供の閉塞感を表現した物語」であってもいいわけで、もうそこらへんは個人個人の楽しみ方なんじゃないかと思いますねえ。というか、みんな「子供」にこだわり過ぎだと思うけど……