抑圧の迷路ーー秋葉原通り魔事件について5

男性は小さい頃から、「闘うこと」を刷り込まれて育ちます。これはもう、間違いなく。教育熱心なご家庭ですと幼稚園のときから「お受験」がありますし、高校になればみんなひとしく入学試験があります。高校受験を放棄することはなかなか難しい。もちろん高校にいかなくても立派に社会人になることは可能なはずですが、社会はそうは思わないわけですね。なかなかすごい偏見がまかり通っているわけです。大学受験になれば、こんどは高校の先生までいっしょになって就職がどうこうとか騒ぎだす。これは子供にとってはすごいストレスです。こんなの女性でもいっしょだと思われることだと思いますが、まったくもってその通りで、女性でも「社会的に成功しようと思えば」まったく同じストレスにさらされます。いや、むしろ「女性」であるがために、その道はよりつらいものになってしまうのが現実かもしれません。男性からは招かれざる闖入者、女性からは足抜けした反逆者扱いされる分、その立場は男性よりもはるかにつらいものになるでしょう(びみょーな話題だなあ)。

しかし、こうやって書いているとすぐに気づかされることが、マンガやゲームというのは、実に的確に世相を反映しているのだなあ、ということなわけです。少年ジャ○プや少年マガ○ンなどの少年誌に載せられているマンガの大半は、乱暴に言い換えてしまえば「闘うこと」をテーマにした「勝ち抜き戦」のメタファです。ほとんどの少年マンガは、構造的に闘わなければならないという宿命を持ち合わせています。そして、最終的には「勝つ」。それが少年誌ではもっとも重要なファクタです。闘うこと自体はジェンダーイメージとして社会から強要されますが、少年たちはマンガの主人公に感情移入して同化することで、ある種のカタルシスを得るわけですね。勝利する主人公に自分を重ねることによって、抑圧からの解放を求めるわけです。

つまり、ナイフを持って通り魔的な犯罪に走る犯人たちは、別にゲームやマンガの影響を受けてそういった犯罪に走るわけではなく、一方的な力の行使を望む精神構造を背景に持っているがために暴力的な表現に親和性が高く、そういったものを所持している可能性が高い、と考える方がよいのではないかと思います。そのため、おそらくゲームやマンガを規制したところでまったくの無駄だろう、と私は考えます。いまマスコミが必死にむにゃむにゃ云っている、「ゲーム規制」や「マンガ規制」は、かなり的はずれな議論です(銃刀法の見直しは、まあ意味があるかもしれないとは思いますが…)。時間の無駄でしょう。こういったゲームやマンガは、極度に抑圧された精神が求める、精神安定剤のような役割を持っている可能性もあるのではあるまいか……というのは、私の個人的な意見です。実は幼女趣味もこれと似た精神構造の産物でしょう。

続く。まだ続くのかw