闘争の系譜ーー秋葉原通り魔事件について4

では、なぜそういったひとたちは、「力を行使すること」に飢えているのか、という点が重要になってくるのではないかと思います。もしくは、そういった「力への渇望」がなぜ出てくるのか、という点です。ここでひとつ注意を向けておかないといけないと思うのは、こういった通り魔的な犯行に至るほとんどのひとは「男性である」ということですね。

男性であるということがどういうことなのか、少し考えてみましょう。あるひとが男性であるなら、生きていく上で、つまり社会的には、いったい何が求められているのでしょうか。まず、家族を養うのは男性の仕事だとみなされますね(私がどう考えているかは別問題だと断っておきますが…)。きちんとした社会的な地位を持ち、家族を養っていけるだけの経済力を持つことが求められます。そのためには仕事ができなければなりません。仕事ができる、というのはきわめて抽象的な概念ですが、これはまあ、社会的に「いい仕事」と見なされている仕事に就いて、出世する能力、といってもいいかもしれません。それなりの役職に就くことは社会的にも認められる地位を持っているということですから、そういった能力を持っていることが求められていることになります。これは社会が男性に求めているジェンダーイメージのひとつだと云ってもいいでしょう。この部分には異論が多いことと思いますが、まだまだそういったジェンダーイメージというのは多く残っているものです。良いか悪いかは別問題として、ですが。

このことは、男性に常に「闘うこと」を強要します。出世競争、なんてことばもあるくらいですので、社会的に成功しようと思ったら、ある程度は闘わなければならないのです。そして現実問題として、闘わなければ成功することは難しい。成功したいヤツだけが闘えばいいじゃないか、というのは確かにその通りですが、そうやって闘わないひとたちは、脱落者だと見なされます。自分がどう感じているかは問題ではなく、社会的にそう見なされるわけです。闘わないひとたち、もしくは闘うための土俵に上がれなかったひとたちも、まとめて脱落者だと見なされる。社会的に確固たる地位を築くことが出来なかったひとたちを脱落者だと見なす傾向が、たしかにあると思います。そういった認識があるのは大人ですから、親が熱心であれば、子供は幼稚園のときから「お受験」だといって闘わされるわけです。小学校や中学校は義務教育ですが、高校は入学試験があります。大学もそうですね。出身大学は修飾に影響すると云われているくらいですから、いい大学に入るためにはやっぱり闘わなければなりません。常に闘い続けること、それが男性に課せられた宿命なのだと云えます。

続く。いつまで続くんだw