ディスコミュニケーションの構造ーー秋葉原通り魔事件について3

通り魔的な犯行にミリタリナイフやダガーナイフを使う心理というものについて、私はこの「ナイフ」というものがもっとも解りやすい「力の象徴」であるからだと思います。だから、包丁ではダメなわけです。いや、べつに包丁であっても「殺傷道具」としては十分強大なわけで、その意味では資格は十分なんですが、とくに「殺傷道具としてのナイフ」を選んでしまうあたり、それはじつはナイフというものが「そのひとにとっての力の象徴」だからだと思うわけですね。このあたりがたぶん、マンガやゲームの影響なのではないかと思います。だから、銃が手元にあれば、銃を使って犯行に及んだかもしれません。もちろん殺傷力を追求したら結果的には銃に行き着くのですが、では包丁とナイフの差は何かと云われれば、物理的な差はほとんどないように思います。軍人が使えば、片刃の包丁と両刃のダガーで差は出ると思いますが……

ですので、「男性」が「力の象徴」を持って、「反抗出来ないひとたち」を「殺傷してまわる」という犯行は、とても象徴的な何かをはらんでいると感じるわけです。そこにあるのは、一方的な力の行使。強大な力を叩き付けて、相手を破壊してしまう一方的な力の行使だけがあります。弱いものに対して力を叩き付ける行為が、この通り魔事件で顕著に出てくる。だからかどうかはわかりませんが、通り魔の被害者というのは、たいていの場合は、女性であったり、何も知らない通行人であったり、小学生だったりする。抵抗出来ない小動物の場合も、ここに含めてかまわないと思います。大きな大人の男性が大勢殺された例もありますが、その場合は凶器がたいてい銃になります。もしくは、車で突っ込むなどの手段がとられる。一対一で殺害してのけた、という例は、あまり多くないんじゃないかと思います。

要するに、「抵抗出来ないひとびとに、自身が力を行使すること」が、通り魔的な犯罪の目的なのではないか、と考えるわけです。よく犯人は、「誰でもよかった」と云いますが、まったくもってその通りで、だから誰でもいいわけですね。あえて云うなら、抵抗されなければそれでいい。力を行使出来れば、つまり自分の優位性が確信出来ればそれでいいわけですので、犯行そのものについてはやけに計画的であるくせに、いろんなところで穴だらけです。ちょうど、お菓子を目の前にした子供に似ています。(たとえが不謹慎かな……)

続く。