間違ったメッセージ
処分を遅らせることには、二つの間違った効能がある。ひとつは「組織の鈍重さを露呈してしまうこと」、そして「周囲に間違ったメッセージを出してしまう」ということだ。
大きな組織、大きな問題であれば、議論し合意を形成するのに時間がかかるということはあるかもしれない。しかし、時間をかければかけるほど、「私たちはこの問題を、その程度の問題であると考えている」というメッセージを出していることになるのだ。つまり、明らかに倫理的におかしい問題を含んだコンテンツに対して、一週間も議論の余地があった、私たちは今後もこのような動画に対して即対処するのではなく、場合によっては許容される可能性を否定しない、削除すべきかどうかを慎重に検討しなければ削除することもしないのだ、というメッセージである。
本当に憤りを感じ、本当に再発を防止し、二度と起こしたくないと考えるならば、即座にチャンネルごと削除すべきであった。議論の余地があったということは、その組織にとって倫理感の他に優先されるべき課題があった、バランスを考慮せねばならなかった、ということに他ならない。それが、メッセージになって、後に続くものに示される。
まあ、ここらへん、組織なら組織内でブレーキがかかって、これまずいよね、とかゆー話しになるところ、個人だと目先の利益に目がくらんで、先走っちゃうんだろうねえ。
ペンも規制されるべきでは?
「ペンが剣より強い」という自覚があるなら、ちょっとは慎重に扱おうという意識はないのだろうか?
剣が銃刀法で規制されているなら、その剣よりも「強い」と業界が自覚している「ペン」がなぜ自主規制されないのか、不思議である。銃規制に反対するひとたちと同種の、ある種の傲慢さすら感じられる。報道する、表現する自由は、第三者の基本的人権を侵害してもなお優先されるべき権利なのだろうか。誰がこの被害者の個人情報を望んでいるのだろう?
目に余る事例は規制されるべきで、これは報道機関だけに限らない。個人が広くニュースを発信しうる世の中になったのだから、ペンの破壊力をもう一度考慮し直すべきではないだろうか。
気圧の変化は体調に影響を与えるか?
私個人にとっては、ほとんど影響はないと考える。
理由はふたつ。
- 標高2000メートルを超える山に登ったことがあるが、頭痛や体のだるさを感じなかった。また、体調が悪くなるような気配もなかった。
- 飛行機に乗った際にも同様に体調不良を感じたことはない。
上記二つの理由により、少なくとも私自身には、気圧の変化は影響がないであろうと推測できる。
私は体が弱く、季節の変わり目にはダウンしていることが多い。天気が悪い日は調子も悪い。しかし、そうであってさえ、気圧の変化が私の体調に影響しているとは(私自身は)ほとんど考えられない。少なくとも、気圧の変化だけでは体調を崩すことはないと考える方がより真実に近い。おそらくだが、ただそんな気がするだけか、気圧の変化に加えて、別の要素が加味されたときだけ体調を崩すのであろう。もしくは、飛行機に乗ったり山に登っているときは特殊な状態にあって、マイナスが打ち消されているだけかもしれない。
まあ、低気圧がダメだと公言しているひとでも、飛行機に乗ったら同じ状態になったという話しを聞いたことがないので、大半の人はおそらく気圧単体では影響がないか、ものすごく軽微なのだと思われる。あまり知られていないようだが、飛行機内は(与圧されているとはいえ)おおよそ0.8気圧程度で、爆弾低気圧なんか目じゃないくらい気圧が低い。そこらへんの低気圧ごときで体調を崩すひとは飛行機に乗ることは不可能だが、あまりそのような話しを聞いたことがないので、おそらく影響は大きくないのだろうと推測する次第である。
ファンギフローラ
なあ、綺麗だろう。。。?
信じられるか。これ全部、「カビ」なんだぜ。。。?
( ' ^'c彡 ))Д´) パーン
ソーシャルメディアで目立とうとする迷惑行為
常々思うところだが、こういう「ソーシャルメディアで目立とうとする迷惑行為」と、いわゆる「鉄オタが写真撮るために自己中行動をとること」に、何か差があるのだろうか?うーん、よくわからない。少なくとも、ソーシャルメディアで目立ちたいと思わないひと、写真を撮るためにイノチ賭けてないひとからすると、等しく「タダのバカ」で括られてしまいかねない行為ではある。世の人の大半が、これらはどちらのタダの馬鹿、で済ましてしまうであろう。
ソーシャルメディアは人気の度合いを数値化できるところに意義がある。簡単に云ってしまえば、友達百人出来るかな、の世界である。過激なことをやれば視聴者が喜ぶ、だから過激なことをやる、という論理が、まかり通るのがこの世界だ。視聴率が上がる、視聴者数が増えるということは、ここでは正しいことであり、絶対的な評価基準のひとつでもある。だから、ユーザは、ルールに従ってまっとうに評価されようとしているだけなのだ。ほらさー、クズほど仕事が出来る、っていうじゃーん?みたいなー。まあ、どんな手段を使っても「評価される」方法を採っているだけで、非常にわかりやすい基準に従って仕事をしている、実はただそれだけのことで、その点ではきわめてシンプルかつわかりやすい、とも云える。
つまり、他者から評価されたい、という承認欲求が、行動力の源泉であると推測される。数字で評価されるため、非常にわかりやすい。また、どのようなことをしたら数字が稼げるのか、これまた非常にわかりやすい。まあ要するに、ソーシャルメディアにハマっているひとは、同じようにワーカホリックにもなりえると推測される。このふたつは完全に同じものにはなりえないが、ひとの承認欲求がいかに強く、またそれに振り回される人がいかに多いかという、よい証左であろう。