宗谷本線

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何年か前、北海道でブルベを走ったときに、足を痛めてDNFした。そのときに輪行でお世話になったのが、宗谷線である。たしか、音威子府から旭川まで輪行したのだ。ぼーっと景色を眺めながら、たしか2時間くらいゆらゆらと揺られていた。10人弱くらい、私の他にもお客がいて、自転車が邪魔だったので申し訳なく思ったことをよく覚えている。

利用客数が必ずしも需要を反映するとは思わないし、数字には換算できない事情もあるだろう。しかし、半永久的に利便性を提供するためには、ある程度の収益があることもまた大切で、難しい問題だと思う。個人的には、存続していてほしいし、もういちど乗ってみたいと思う。いちどはゆらゆら揺られて、稚内までいってみたいな。

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熱意は強制できない

「皆が皆、あなたのように熱心に取り組んでいるわけではない」

こんなことを云われた人がいるかもしれない(ほんとにいるのか?)。つまり、熱意や情熱は共有できるが、強制することはできないのである。馬を水辺に連れて行くことは出来るが、むりやり水を飲ませることはできない。自分以外のメンバが熱心に取り組んでくれない、とお嘆きのあなた、それは情熱を共有できていないことが原因だ。細かいことは各々考えて察しろ、というのは、リーダの怠慢である。残念ながら、それは理想ではあるものの、「理想とする状態」であり、云うなれば「best」である。bestな状態は、非常にレアだと心得るべきだ。少なくとも、最初から期待するべきものではない。そんな不確実なものを最初からあてにしているなんて、どうかしている。正気とは思えない。

情熱や熱意、思い入れ、そういったものは共有するものであり、強制することは出来ないものだ。チームリーダは、チームのメンバに対して「察しろ」と云ってはいけない。資料を渡して、「これを読んでおけ(=読んですべて理解しろ)」と云ってはいけない。それは情熱の強制である。情熱の強制は不可能なのだ。熱意は共有するものであり、そのためには仕掛けが必要だ。従って、情熱を共有できていないチームは、リーダがリーダとしての責任を果たしていない、と云えるだろう。

まあ、そこまで機能しているチームは見たことがないですが。。。

勉強の仕方

大人になっても、勉強の仕方がわからない、というひとが意外に多いことに驚かされる。

というか、これはほんとうに理解できない。勉強の仕方がわからない???私はあなたが何を云っているのかわからない。勉強したいんだったら、勉強したらいいじゃん?何か迷うことや、難しいことがあるのだろうか?日本国民の大多数は義務教育を通過してきているわけで、正直なところ、「以前、歩いたことはあるんだけさ、歩き方忘れちゃったよ」とか、そーゆーレベルの話しである。おそらくではあるが、その真意は「効率のいい勉強の仕方がわからない」とか「結果が出せる勉強の仕方が分からない」といったことが云いたいのだろう(と思う)。

勉強の仕方や勉強すること意義、自分にとってどういう意味があるのかは、義務教育の間に学び取っておくべきものだ。教えられるものではない。勘違いしてはいけないが、これは自分が学び取るもので、教えてもらえるものではないのだ。勉強の仕方がわからないと嘆くひとは、結局のところ、努力を積み上げるのがめんどくさいと云っているだけで、要領よくやるやり方がわからない、と云っているだけだ。最初から要領よくできるひとはようするに才能がある人であって、勉強に限らず「才能がないひと」は、ただもくもくと積み上げるだけである。早く走れないなら、歩いて進めばよい。結果として、才能がある人よりも遅くはなるだろうが、どこかには到達するだろう。何か、わからないことがあるだろうか?やるかやらないかの世界である。歩き出さない人に走り方を教えても意味はない。

ちなみに、勉強の仕方がわからないと嘆く人の大半が、「わかった振り」をする傾向がある(ように観察される)。わかった振りをすると結果、脳みそが騙されて、それ以上勉強しなくてもよいのだと勘違いする。これを繰り返すと、勝手に脳みそがわかった振りをして、自分がどこまで理解していてどこから理解できていないのか、理解の最前線が曖昧になる。つねに自分がどこまで理解できていないのかを把握しておくことが大切である。

答えるべき問いはどこにあるのか

上司が「知りたいこと」にきちんとフォーカスしていないと、
部下は「答えるべき答え」が作れない。
上司が「何でも知りたい病」にかかると
部下は「何にでも答えようと準備する症候群」に罹患して、疲弊する。
そして10年後、部下は「何でも知りたい病」にかかった上司として、
部下を「何にでも答えようと準備する症候群」に罹患させる。

結局は、上司が何を目標にしているのかをはっきりと自覚していることがもっとも大事で、
そのためには何が必要なのかについて、自覚的であることでしか、
この悪循環を止める手段はないように思える。

「何でも知りたい病」は非効率の源泉である。

面接というもの

面接について、考える機会があった。

たとえば、このような質問にはどのような意義があるのだろうか。
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質問があるからには、質問をした意図があるはずだ。圧迫面接と云われる手法は、意図的に面接者に対して圧力をかけてその反応を見ることで、ストレスやあからさまな圧力に対応する能力を見ることを目的としているらしいが、はたしてこのような手法で「ほんとうに」能力を図ることが出来るのだろうか?面接の場で応答が困難な質問をあえてすることで、そしてその反応をみることで、どのような解釈が出来るのだろう?

医学の世界で、「これはこうなるはずだ」といって新しい治療法を検討することはある。ただし、検証が必要である。検証の結果、思い込みでいままで有効であるとされてきた手法がじつは無意味だったと判明することもある。とうぜん有効だと考えられた手法に、あまり効果が見られないこともある。面接の世界に、そのような検証はあるのだろうか?たとえば、面接することでより「優秀」な人材を確保できるという仮定は、検証されているのだろうか。

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以前から感じていた疑問は、けっきょくこういうことなのかな、と思いつつある。
思考の瞬発力は大切だが、それがすべてではない、ということだ。

アメリカの企業は、自分たちで事業を育てることはせず、基本的に、「必要なものはアウトソーシング!」という価値観で動いている。従って、最初から優良なもの、その時点で役に立つものが選ばれ、好まれる。日本はどうだろう?日本人のビジネス的な価値観は、かなりの部分、「年功序列」や「終身雇用」に依っていると思う。それが日本の企業力の源泉だともてはやされた時期もあったらしい。いまでは批判されることも多いようだが、少なくとも悪いことではないだろう。その日本が、なぜ思考の瞬発力だけを評価するような選抜方法に依るのだろう?面接という採用手法そのものが、目的と矛盾しているのではないかと感じることはよくある。

いわゆるところの就職面接は日本には馴染まない。たぶん、だけれども。

ポンチ絵とはこれ如何に

ポンチ絵という行政用語がある。正確には行政用語ではないはずだが、なかば市民権(?)を得てしまって、ほとんど行政用語として扱われている謎の言葉だ。

日本人はなんでもかんでも図示したがる傾向があって、うまいやつが一枚絵にすると簡潔かつ明瞭でわかりやすく、みんなハッピィになれるのだが、慣れないものが作ると、全体像がわかりにくく、いちいち確認しないといけなくて、かつ詳細も別紙参照、みたいな地獄絵図になりやすい。個人的には、箇条書きが好みで、図示されると理解するのにエネルギィを使うので、できるかぎり箇条書きが欲しいなと思ってしまう。

だいたいにして、箇条書きにするとわかりにくいとか、読みづらいとかいうやつって、頭使ってないですよね?見た瞬間にわからないとかいうやつ、ものすごく頭の回転が早くてほんとに資料が「わからない資料」なのかもしれないが、そのスピードで「わからない」という結論が出せる頭があるなら、一枚絵で図示できる程度の情報量、まず即座に理解できるはずなのだ。つまり、文字を見ていきなりわからないというやつは、ただのめんどくさがりで、頭を使ってない(こーゆーのがいずれボケるのだと思う)。

ポンチ絵のまずいところは、見ただけでなんとなくわかったような気になるところだ。詳細が曖昧になる傾向があるので、総論賛成各論反対状態に陥りやすい。箇条書きは読めばわかるが、ポンチは詳細が解釈できないことが多い。日本人は、さっさとポンチ絵をやめるべきであろう。