勉強の仕方

大人になっても、勉強の仕方がわからない、というひとが意外に多いことに驚かされる。

というか、これはほんとうに理解できない。勉強の仕方がわからない???私はあなたが何を云っているのかわからない。勉強したいんだったら、勉強したらいいじゃん?何か迷うことや、難しいことがあるのだろうか?日本国民の大多数は義務教育を通過してきているわけで、正直なところ、「以前、歩いたことはあるんだけさ、歩き方忘れちゃったよ」とか、そーゆーレベルの話しである。おそらくではあるが、その真意は「効率のいい勉強の仕方がわからない」とか「結果が出せる勉強の仕方が分からない」といったことが云いたいのだろう(と思う)。

勉強の仕方や勉強すること意義、自分にとってどういう意味があるのかは、義務教育の間に学び取っておくべきものだ。教えられるものではない。勘違いしてはいけないが、これは自分が学び取るもので、教えてもらえるものではないのだ。勉強の仕方がわからないと嘆くひとは、結局のところ、努力を積み上げるのがめんどくさいと云っているだけで、要領よくやるやり方がわからない、と云っているだけだ。最初から要領よくできるひとはようするに才能がある人であって、勉強に限らず「才能がないひと」は、ただもくもくと積み上げるだけである。早く走れないなら、歩いて進めばよい。結果として、才能がある人よりも遅くはなるだろうが、どこかには到達するだろう。何か、わからないことがあるだろうか?やるかやらないかの世界である。歩き出さない人に走り方を教えても意味はない。

ちなみに、勉強の仕方がわからないと嘆く人の大半が、「わかった振り」をする傾向がある(ように観察される)。わかった振りをすると結果、脳みそが騙されて、それ以上勉強しなくてもよいのだと勘違いする。これを繰り返すと、勝手に脳みそがわかった振りをして、自分がどこまで理解していてどこから理解できていないのか、理解の最前線が曖昧になる。つねに自分がどこまで理解できていないのかを把握しておくことが大切である。

答えるべき問いはどこにあるのか

上司が「知りたいこと」にきちんとフォーカスしていないと、
部下は「答えるべき答え」が作れない。
上司が「何でも知りたい病」にかかると
部下は「何にでも答えようと準備する症候群」に罹患して、疲弊する。
そして10年後、部下は「何でも知りたい病」にかかった上司として、
部下を「何にでも答えようと準備する症候群」に罹患させる。

結局は、上司が何を目標にしているのかをはっきりと自覚していることがもっとも大事で、
そのためには何が必要なのかについて、自覚的であることでしか、
この悪循環を止める手段はないように思える。

「何でも知りたい病」は非効率の源泉である。

面接というもの

面接について、考える機会があった。

たとえば、このような質問にはどのような意義があるのだろうか。
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質問があるからには、質問をした意図があるはずだ。圧迫面接と云われる手法は、意図的に面接者に対して圧力をかけてその反応を見ることで、ストレスやあからさまな圧力に対応する能力を見ることを目的としているらしいが、はたしてこのような手法で「ほんとうに」能力を図ることが出来るのだろうか?面接の場で応答が困難な質問をあえてすることで、そしてその反応をみることで、どのような解釈が出来るのだろう?

医学の世界で、「これはこうなるはずだ」といって新しい治療法を検討することはある。ただし、検証が必要である。検証の結果、思い込みでいままで有効であるとされてきた手法がじつは無意味だったと判明することもある。とうぜん有効だと考えられた手法に、あまり効果が見られないこともある。面接の世界に、そのような検証はあるのだろうか?たとえば、面接することでより「優秀」な人材を確保できるという仮定は、検証されているのだろうか。

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以前から感じていた疑問は、けっきょくこういうことなのかな、と思いつつある。
思考の瞬発力は大切だが、それがすべてではない、ということだ。

アメリカの企業は、自分たちで事業を育てることはせず、基本的に、「必要なものはアウトソーシング!」という価値観で動いている。従って、最初から優良なもの、その時点で役に立つものが選ばれ、好まれる。日本はどうだろう?日本人のビジネス的な価値観は、かなりの部分、「年功序列」や「終身雇用」に依っていると思う。それが日本の企業力の源泉だともてはやされた時期もあったらしい。いまでは批判されることも多いようだが、少なくとも悪いことではないだろう。その日本が、なぜ思考の瞬発力だけを評価するような選抜方法に依るのだろう?面接という採用手法そのものが、目的と矛盾しているのではないかと感じることはよくある。

いわゆるところの就職面接は日本には馴染まない。たぶん、だけれども。

ポンチ絵とはこれ如何に

ポンチ絵という行政用語がある。正確には行政用語ではないはずだが、なかば市民権(?)を得てしまって、ほとんど行政用語として扱われている謎の言葉だ。

日本人はなんでもかんでも図示したがる傾向があって、うまいやつが一枚絵にすると簡潔かつ明瞭でわかりやすく、みんなハッピィになれるのだが、慣れないものが作ると、全体像がわかりにくく、いちいち確認しないといけなくて、かつ詳細も別紙参照、みたいな地獄絵図になりやすい。個人的には、箇条書きが好みで、図示されると理解するのにエネルギィを使うので、できるかぎり箇条書きが欲しいなと思ってしまう。

だいたいにして、箇条書きにするとわかりにくいとか、読みづらいとかいうやつって、頭使ってないですよね?見た瞬間にわからないとかいうやつ、ものすごく頭の回転が早くてほんとに資料が「わからない資料」なのかもしれないが、そのスピードで「わからない」という結論が出せる頭があるなら、一枚絵で図示できる程度の情報量、まず即座に理解できるはずなのだ。つまり、文字を見ていきなりわからないというやつは、ただのめんどくさがりで、頭を使ってない(こーゆーのがいずれボケるのだと思う)。

ポンチ絵のまずいところは、見ただけでなんとなくわかったような気になるところだ。詳細が曖昧になる傾向があるので、総論賛成各論反対状態に陥りやすい。箇条書きは読めばわかるが、ポンチは詳細が解釈できないことが多い。日本人は、さっさとポンチ絵をやめるべきであろう。

目標について

職場の定期面接で必ずといっていいほど尋ねられる「目標」について。

いつも思うことだが、検査部としての目標が何なのか、検査部として達成すべき目標が何なのかがしっかり定められていなければ、「組織の中の一人(つまり組織の中で働く個人)」としての目標など、立て様がない。おそらくそれを尋ねる上司は、「自己研鑽」や「検査部に貢献できる」何かを期待しているのだろう……面白い答えが返ってきたらラッキィと思うのかもしれないし、自分の意に沿う内容だったら満足するのかもしれない。ちなみに、私自身はこの年間目標について、何かしらのフィードバックを受けたことはない。どころか、数年前まで進捗を確認されたことすらなかった。まあ、上司も勤務評定を書くために聞いているのだろうと思う。

たとえば、今年の目標は「より自分が成長できそうなところに転職することです。そのために英語力を磨き、認定資格を取ることを目指します」とか答えたら、どういう顔をするのだろう?立派な目標だ。キャリアをしっかりと考え、自分の目標を定めた結果の応えなら、組織は応援してくれるのだろうか?暗に、「ここでは(これ以上)成長できません」と云っているわけだが、こういう場合、上司はどう考えるのだろう?