文句だけを言う人

愚痴るのが好きな人がいる。聞かされる方は「この人はなぜ問題を解決しようとしないのだろう」と不思議なのだが、どうやら、聞いてもらえるだけで満足らしく、一方的に話し終えると、たいていは満足してしまう。同じことを繰り返し愚痴るひともいれば、多種多様な愚痴を聞かされるケースもある。どちらも共通しているのは、「このひとは、じつは困ってないのだな」ということである。

「困ってはいるけど、それほど強くは困ってないので、解決するより愚痴るほうが労力がかからない。結果として愚痴ってる方がマシ」というパターンと、「実はほとんど困ってはおらず、話しを聞いてもらうのが目的」という、ふたつのパターンがあるように思われる。どちらも、じつは「困って」いないので、問題解決より愚痴ること自体が目的である。従って、アドバイスなども求めていない。たいていの男性はこのパターンで具体的にアドバイスをしようとするが、愚痴っているほうはアドバイスなど求めていないので、そのアドバイスが愚痴っているひとに対する非難めいたものになると、すぐに喧嘩の種になる。

そのうち愚痴を聞いている方も対応がおざなりになってくるが、愚痴っているほうはこれが気に入らないので、これまた喧嘩の種になる。愚痴っている方が愚痴っている目的は、「問題を解決すること」ではなく「話しを聞いてもらうこと」「注意をこちらに向けてもらうこと」なので、対応がおざなりになってくると目的を達成できない。従って、愚痴の内容がエスカレートするか、頻度がエスカレートするか、表現が大げさになるか、のどれかを選択し、目的を達成しようとする。場合によっては、ほかに愚痴を聞いてもらえる人を見つけて、そっちに移行するケースもある。

「愚痴るひと」と「愚痴られるひと」がいい関係を作れるかどうかは、大抵の場合、「愛情があるかどうか」で決まると思われる。無償の愛情があると確信できない相手に愚痴り続けると、まず間違いなくその関係性は破綻すると考えた方がよい。例外的に愚痴につきあうのが好きな人もいて、こっちはこっちで、愚痴につきあうことでその目的を達成しているケースが多いので、そういうひとを見つけられれば、双方が幸せかもしれない(絵に描いたように不幸な図のような気もするが)。

集中力というリソース

集中力というリソースは限られている。限られていて、かつ有用なものは、有効活用すべきである。

自分の集中力が何によって妨げられているのか、簡単に判断するためのいい方法がある。10分ほど、座禅を組んで何も考えないようにするのだ。何も考えてはならない。たとえば、外の蝉がうるせえとか、きょうの晩ご飯何にしようとか、明日の仕事いきたくないなあとか、腹減ったとか、思い出したら叫びたくなるような過去の失態とか、そういうものすべてを、いっさい考えてはならない。

そうやって頭から余計なことを追い出してからっぽにした「つもり」になったとき、それでも頻繁に頭に浮かんでくることは、あなたの注意力リソースを奪い取る原因のひとつである。可能であれば、対処すべきであろう。

タブレットはいざという時に「使える」か?

DMATの訓練でタブレットを使うたびに思うことがある。タブレットって、有事の際に「使える」だろうか?

個人的にはNo。まったくといっていいほど、使い物にならないのである。みんなよくあんなものでちょこちょことEMISを更新できるなあと感心する。とくにダメなのが情報収集だ。情報収集の際には、基本的にはいくつものタブを並行して展開して、あるタブには地図、こっちのタブにはEMIS、あっちのタブには土木情報、そっちのタブには道路状況、みたいな状態になるのが普通だが、これがまったくスムーズにできない。反応が鈍すぎる。入力も不自由だ。これでは、ロジが使うには問題が多すぎる。

もっとダメなのが、タブレットにマウスをつないで使っているひと。これは、タブレットの操作性に問題があることを端的に示すいい証左なわけだが、手に持って使うタブレットでマウスをつないでいる意味が分からない。それ、どこでマウスを操作するつもりですか?けっきょく下敷きかなにかがないとダメなわけで、携行物が増えてしまう。ThinkPadなどについているトラックボールもダメだ。ジェスチャが使えないから、やはり製薬が多い環境下では、操作が悪くなる。

というわけで、災害時、DMATのロジが使うためには、

  1. 軽い
  2. それなりの大きさがある
  3. トラックパッドの操作性が高い
  4. それ自体で通信が可能である

などの能力が欲しいと思うわけで。モバイWi-Fiでネットに接続しているヒトが多数でしたが、これも携行物が増えるので避けたいと常々思います。まあ、お金の関係で難しいですが。

リハビリ勤務について

少し辛辣かもしれないが、この時点で私が感じていることを、「記録」として書いておこう。

メンタルヘルスで復職したひとの勤務状況を、どのように考えるべきなのだろうか?もっと細かく言及するなら、「リハビリ勤務」とはいったい何だろうか?

私は現時点で、「リハビリ勤務」を「100%復職できる状況ではないひとを、段階的に勤務に慣らしていこう。きっと復職できるレベルまで慣らすことが出来るはずだ」という考え方だと理解している。果たして、ほんとうに可能だろうか?少し調べてみたが、このリハビリ勤務が有効であるという科学的な根拠はなさそうだ。科学的な根拠がないから無意味だというつもりはさらさらないが、周囲を見渡してみて、リハビリ勤務、慣らし勤務が「成功」しているケースはあるだろうか。私自身は、寡聞にしてほとんど聞いたことがない。

たとえば、3ヶ月慣らし勤務をして、それでもなお支援が必要だという状態は、果たして「勤務できる状態」と云えるのだろうか?その場合、いったいどのくらいの期間「支援」をしたら、そのひとは「復職」できるのだろうか。さらに云えば、果たしてそのひとは「支援」がなくなったら、「勤務できる状態」を保つことが出来るのだろうか。

私がいちばん疑問に思うのは「ここ」である……「支援」が必要なひとが慣らし勤務で仮に復職するとしよう。そしてリハビリしながら、所定の期間の勤務を終えて、正式に復職する。その後、そのひとは、「支援」なしで勤務を継続できるのだろうか。それこそ個人差があるのではないか。支援がないと働けない状態の人を、支援しながら働かせて、ある日すっぱりと支援がなくなると何が起きるのか。火を見るより明らかではないか?

つまり、リハビリ勤務の間に正式に復職できると判断できるまで、本来なら支援が必要なはずである。それははたして「勤務できる状態」といえるのか?つまり、「一定の成果を上げて給料をもらえる状態」だと云えるのだろうか。

辛辣かもしれないが、個人的にはNoだ。リハビリ勤務という考え方は、かえってメンタルヘルスのひとが復職するための障害になっている気がしてならない。そして、この制度が職場と患者、双方の不幸を作っている現況のような気がするのである。

誤解はどちらに非があるか

誤解はする方に非があるのだろうか?それとも、誤解を与える方に非があるのだろうか?

個人的には、両方だと考える。誤解を与える人は誤解を与えないようにすべきだし、誤解をしがちな人は正しく解釈するよう努めるべきだ。だが、あえてどちらに非があるかと考えてみると、やはり誤解を与える側に非があるのではないかと思える。

誤解する方が悪いと開き直るひともいるが、そういうひとに聞いてみたい。
君は世界中の「誤解する人」に言い訳して回るつもりかい?

研修

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習ったことの「適用」が現場に丸投げされている点が、画一的な研修の大きな問題点のひとつだと思われる。それは以前にも書いた(2016-09-09)。

つまり、どのようなことであれ、しかも有益で、意外性がある方法ほど、習ったことは役に立たないのである。だから、研修で有益なことを教えてもらっても、大半の人はそのまま忘れてしまって、従来通りの方法で仕事をまわしていくことになる。研修の場ではなく、現実のルチンで適用できてはじめて、目的を達成できたことになるはずだ。

個人でやってはいけないのである。やるなら、「仕事を変える!」という強い決意のもと、全員でやらないと。無駄だとは云わないが、ほとんど形骸化しているのが悲しいところだ。

まあ、意思決定にスコアリングシステムを導入して、曖昧さを多分に含む主観的なスコアどうしをかけ算して意思決定する方法とか教わったことありますけど、そういう馬鹿臭い研修をやっているところもあるので要注意、ってぇのもありますよね。不確実性をかけ算で増幅してどうするの?馬鹿なの?直感に反する結果が出たときにはどう判断したらいいですか、って質問に、「修正してください」とか云われて、俺はどうやって現実にこの方法を使っていったらいいの?

先人の知恵

「先人の知恵」について、どうこう云うつもりはないけれども。

先人の知恵からしか学ぶことが出来ないなら、そりゃ年を食えば学ぶことが少なくなっていくから、相対的に思考の柔軟性が失われ、馬鹿になっていくのもしゃーないわなぁ。残念だけど、つける薬は見当たらない、不治の病と云ってもいいでしょう。